「心が大事」とはどういう意味でしょうか
昔どこかで目にした「心が大事」という言葉がずっと胸に残っています。
漠然としているし、当たり前な言葉のような気もするんですが、なぜかずっと忘れられない言葉です。
でも考えても、この言葉の本質が掴めません。
心が大事とはどういう事なんでしょうか。
漠然としているのですが、このサイトでならばきっと教えていただけると思って質問致しました。
是非ともよろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
祈り
大切なのは、どれだけ多くのことをしたかではなく、
どれだけ心を込めたかです。
私の最も尊敬する偉人のひとり、マザーテレサの言葉です。
下手に意味をハッキリさせる必要はないかもね。
あなたの胸に刻まれた万事の礎となる大切な大切な言葉です。
ちょこざいな説明をして、意味を限定的なものにしたくないかも。
「一切唯心造」
はしもと様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
施餓鬼にて読経する「開甘露門」というお経がありますが、その第一偈にて、「若人欲了知 三世一切仏 応観法界性 一切唯心造」という偈頌が出て参ります。
この偈は「破地獄偈」と呼ばれているのですが、どうして、「一切はただ心が造り出している」という理解が、地獄を破ることになるのか、なかなか当初は理解できませんでした。
実は、唯識思想であるとして、あまりそうは深く気にすることもないかと、思っておりました。
しかし、ふと、それではなぜ、一切「唯識」造ではなく、「唯心」なのか、そこで、ハッと気づいたのであります。
心というからには、そこにはただ識だけのことではなく、業(カルマ)が関連してくるからであります。
自分のありようは、存続していく心(心相続)の業の因縁により、その赴きが決まってゆくこととなります。
まさに、その自分の心(業)のありようが、今の世界、次の世界のありようを決めてゆく(造り出していく)ものと言えるのであります。
自分の心の業の因縁が悪いものであれば、当然に三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)へ、悪い中でもそれなりに善き行いに励めれば、三善趣(天・人・修羅)へ、そのように心の業のありようで赴きが決まってゆくのであり、その心のありようを仏道にて清らかに、善き業に調えてゆければ、当然にこの輪廻から逃れることも可能なものとなるのであります。
何より、自分の心(業)が重要、大事であり、それを理解して、しっかりと善き業の因縁に努めることで、地獄(迷い苦しみの輪廻)を破ることになる。
そこで、やっと「破地獄偈」の由来が分かったのであります。
心の業のありようにしっかりと注意を払って参りたいものでございます。
川口英俊 合掌