人を素直に大切にしたり愛することができません。
私は大切な人をなくす悲しみを思うと、人を好きになったり、どっぷり愛することができません。
今いる家族が私を置いていつか居なくなることを考えるだけでも耐えられないのに、そういう対象を増やしたくないのです。
そういう理由で将来子供を持つことに対しても消極的です。
そして、いつも親孝行したいと思っているのに、そういうことをやりすぎるといざという時の悲しみが増しそうで、距離をとってしまいます。
心の中ではほとんど毎日父や母のこと、祖父母のことを考えています。
だけど電話も帰省も滅多にしません。
きっと後悔するとわかっています。でも、できないのです。
先日祖父を亡くしました。
祖父が亡くなっただけでも悲しいのに、悲しみにくれる祖母を見ていると、ますますいたたまれなく思いました。
「私よりもずっとずっと辛いんだろうな、何十年も一緒に居たんだもんな」と、かわいそうでした。
その時は「こんなに悲しむなら最初から出会わなければよかったのにね」と思ったのですが、考えてみれば、祖母は祖父と出会って楽しかったことや幸せだったことがたくさんあるはずですよね。
確かに出会わなかったら今の大きな悲しみはないだろうけど、同時に過去の幸せもないのだな・・・と考えたら、出会ってよかったのか・・・とわからなくなります。
そのことがあってから、私は先々の苦しみから逃れたいために、幸せを遠ざけているのでは・・・?という気がしてならないのです。
身の回りの人に対して惜しみなく愛を注げるような人が羨ましいです。
どうしたら、この苦しみに折り合いをつけて人を素直に愛し、大切にすることができるでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
心に持つものは、無くなったりしないのだからね◎
そうね、そう考えると、一歩が踏み出せなくなるわね。
諸行無常と言ってね、この世は、移り変わり 留まることがないということなの。
出会い 別れ だけでなく、変わらずあり続けることはないのよ。
生きる限り、得るものもあれば、失うものもある。
それが、この世です。
お坊さんは、そのことを知っています。
そして、この世の縁が尽きたあとの、いのちの行方も。それが仏教。死への恐怖も、拠り所があれば、それほども恐ろしくなく 向き合っていけるのですよ。
お祖父さまの死の縁に、あなたも 仏法に触れてみてね。
そして、限りある命、一瞬を大切にしてほしい。
今しかないから、失うことを考えるより、今の出遇いを喜ぼう。心に持つものは、無くなったりしないのだからね◎
それほどに、今を生きることに全力でね。
仏法はね、また必ず遇える道が説かれているのよ。
お祖母さまは、悲しみの中にありながらも、お祖父さまを感じておられるのかもしれませんよ。
今度、ゆっくり会っておいで。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
お返事をいただいてからたくさん考えておりました。
なんとなく、理解できました。
「死」に対して少し前向きに受け入れることができるようになった気がします。
今年の夏、祖父の初盆でまた親戚で集まるのですが、その時自分がどう感じるか、確かめてこようと思います。