無敵の人
川崎登戸殺傷事件、とても心が痛みます。
胸が苦しくてとても悲しいです。
犯人は何も失う物がない
「無敵の人」ともいわれています。
これからの日本、無敵の人が
どんどん増えると思います。
無敵の人に対して、一般市民やお寺は
どう接すれば良いと思いますが?
このような事件が起きないように出来ること、あると思いますか?
(家族?にも無敵の人がいて、同じような事件を起こしてもおかしくありません。私の子供も狙われるんじゃないかと想像して涙が出ます。マイナスな想像は無意味と分かっていても、どうしても考えてしまい、恐ろしくて、吐き気がします。。)
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
恐ろしいですね
失礼します。
わたしにも子がいますので、同じように親としては恐怖を感じます。
一人一人で登下校しても、集団登下校しても、ああいうことをされたら無抵抗すぎます。
しかし同時に、自分だって選択肢次第では無敵の人になり得ただろうな...という恐怖も感じます。
ほんの少しの違いです。
ほんの少しの動機の差、ほんの少しの思い切りで、ああいった行動に出る可能性はあると思います。
誰もが。
思い返せば今までの歴史の中、近代の犯罪史を見ても、多くいます。
社会というものが「普通」とかいう概念でくくられている以上、
そのフワリとした規定から溢れてしまう人は必ずいると思います。
ナショナリズムやポピュリズムが強固になっていきそうな世界の時流ですから、
確かにこれからは、溢れて出る人は増えるかもしれません。
そうなった時に、どういう方向に溢れ出るかを選べる社会が理想です。
私が、タイトルで「恐ろしいですね」といったのは、
私自身も社会の同調性から溢れ出た結果、出家を選んだからです。
もし、別の方向に漏れ出ていたら...犯人側に共感する道だったかもしれない...などと恐怖します。
今回の犯人が、どのような人格で、どのような経緯で凶行に至ったのかはまだ分かり得ませんが、
社会の「普通」から漏れ出る人々を救えるシステムや常識が浸透していって欲しいと思います。
一般の人は「普通」という感覚を捨てて、もっと受け入れていくべきですし(ダイバーシティ)、
我々僧侶は、受け皿になって、溢れ出る事を肯定的に捉えられるようにしてあげるべき(衆生済度)でしょう。
何もしないよりは善玉菌の種をまく
私は坊さんをしていないときは自分の事しかやっていませんでした。
若いころは自分の家が寺だからいつかお寺の活動をしなければ…というような時期もありました。ある時、自分が本当に生老病死やこの度のような悲しい事件のような衝撃的なことに遭遇したり、思い通りにならないことに出くわして「どうあればいいのか」本当のことを求めるようになりました。最初のうちは暗中模索でした。世間でよくあるありがちな坊さん。宗派に取り込まれた宗派僧侶とでもいいましょうか。お坊ちゃん坊さん。いわゆる「いいお坊さん」をやっていた時期がありました。
坊さんは悟りを求めて修行して、法話をしたり、人の苦しみを取り除いたり、と人の心の安らぎに貢献すればいいと思って悟りを得られた坊さんの下で修行していました。
ある時、こう思いました。自分が悟って、心が安らかであっても世界はよくならない。
世の中はちっともよくならないじゃないか!その矛盾を感じました。
自分の力の弱さを感じます。
日本はよくなるどころか、それどころが、日本はどんどん自己中心的な人たちに食い物にされて、善意で誠実にコツコツと頑張っている人たちですら、悪く利用されたり日々痛ましい事件が起きてばかりです。
ぬるいことは言ってられない、と感じています。
だからこそ、本当に世の中に必要なことをやらなければいけないと思っております。
その中でも、私は宗教心の欠如はあってはならないと思います。
本人が、悩みが救われればそれでいいという人もいますが、アンパンマンで説明すれば、アンパンマンばっかりが一人で人助けをしてても、毎回毎回助けが必要になるキャラたちはいつまでも助けられるばかりではいけないのです。
自分たち一人一人が善玉菌を広める活動をする人間性を求めなければ、人は自分だけを大事にしていくようになってしまうことを、私自身も感じました。
宗教心はその宗教の中で最高の人間性を追求させます。それがモラルになります。
仏教もそういうモラルややってはいけないこと、何より人として本当に向かわせるべき方向性を教えてくれます。
もっといえば、やさしさ、あたたかさ、人として向かわせる真の方向性。
人として人間はどうあるべきことが最高最上でしょうか。
このような邪悪な心を良しとせず、悲しいですがそこにとどまることなく、誰も苦しむことのない世界を作る活動を広めてまいりましょう。合掌
全てのものがすくわれるようにと
拝読させて頂きました。
本当に痛ましい事件です。
無力のお子さん達を狙い殺傷することは例えどのような理由があるにせよ大罪であることに弁解の余地はありません。
罪もなきいわれなき幼い子供達を標的にしたこと、それをそのまま実行したことは本当に愚かな所業です。そのような罪悪をなした人はその報いをうけることとなります。死んでこの世から逃げられてもその後決して逃げることはできませんからね。
亡くなられた方々が必ず仏様に救われて一切の恐怖や苦しみから救われ仏様に守られて仏様の元で親しい方々やご先祖様方に巡り合い心から安心なさって下さいますよう切に仏様にお願いさせて頂きご供養させて頂きます。
南無阿弥陀仏なむあみだぶつ
必ず必ず仏様はお亡くなりになられた方々をお救いなさって下さいます。そしてこれから一切の苦しみから救われて仏様のもとで心から安らかになられます。
その大罪を犯してしまった人を私達の社会や国家や世界は弱者仲間外れにしてつまはじきにしてしまったのかもしれません、のけ者にして長年いじめを繰り返してしまったのかもしれません。
その人は弱者だったのかとも思います。ですから自分より弱い人にそのきばをむいたのかもしれません。
そのように追い込んでしまったのは私達であるともいえます。つまりその罪に一端は私達にあると思います。
今迄そのような事件は次々起きていますからね。
本当に真摯に向き合い心から反省して、そのような人を追い込まないような救っていく様な社会にしていかねければならないと強く思います。私達自体が、社会自体が、国家自体が、世界自体が我がこととして真摯に向き合い深く反省し、この様なことが起きないようにとお互いを尊重し思いやり助け合うように心がけていかなければならない切に思います。そして私もあなたも全てのものが救われていくようにと常に心掛けていきたいと切に思っています。
いつ私もその様な大罪を犯す身となるかもしれませんからね。
だからこそ共に救われます様にと善き道を共に歩んでいけます様にと。
現世怨敵皆起慈心(げんせおんじゃくかいきじしん)
わかりにくい専門用語をタイトルに書いてしまって、ごめんなさい。
曹洞宗のお寺の正月行事の代表的なものとして、三朝祈祷(さんちょうきとう)があります。
仏法興隆、世界の平和、檀信徒の皆様の幸福を祈って、大般若理趣分という経本を読み更に転読し祈祷を行います。これを正月三が日に朝課(朝の勤行)の前後に行うことから、三朝祈祷と言っております。他の宗派の大部分でも、同様の御祈祷を行っていると思います。
大般若理趣分の中に「能調伏一切有情。常生善趣受諸妙樂。現世怨敵皆起慈心。能善修行諸菩薩行。疾證無上正等菩提」という言葉があり、特に「現世怨敵皆起慈心」という語句を三遍繰り返して読みます。
誤訳すれば「一切の有情(生きもの)を調伏して常に善趣(人間界と天界)に生まれるようにして、諸の妙楽を受けさせられるならば、現世の怨敵は皆慈心を起こして、能く善く諸の菩薩行を修行してすみやかにこの上ない素晴らしい悟りの境地を示すだろう。」ということです。
もう少し噛み砕きますと、三毒煩悩を制御して、地獄や餓鬼道に墜ちないようにして、人間界天上界に生を受ければ、この世の悪人たちでさえ皆慈悲心を起こし、きちんと仏道を修行し悟りの境地に達する、ということです。
ご質問で「無敵の人」と書いておられますね。お気持ちは理解できます。しかしながら、私はこの表現に異議を唱えさせていただきます。無敵とは、敵の攻撃を完璧に防ぐことだと思います。完璧な防衛力と言い換えた方が良いと思います。この事件の容疑者は、本来敵では無い人々を勝手に敵と捉えて刃物を振るったのだと思います。何ら危害を及ぼさない人々を勝手に敵と見做して犯行に走ったのだと思います。
道元禅師の書かれた『正法眼蔵 菩提薩埵四摂法』に「怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること、愛語を根本とするなり。」 とあります。自分を怨む敵を制御し改心させ政治権力者を納得させるにも、愛語をもって働きかけることが根本となるのです。世の中綺麗ごとで済まないことは誰しも先刻承知です。でも、容疑者に愛語を以て接し、容疑者の言葉や考えを愛語に転じてコミュニケーションしてくれる人が居たら、もう少し結果が違ったじゃないだろうかと思ってます。容疑者の心の中にある慈悲心を引き出すことが出来たのかも。そういう可能性を信じて、愛語を行じていきましょう。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
落ち込んでいた気持ちも少し整理がつきました。
社会がなんとかすべきと思いますが、
「社会がなんとかすべき(、知らんけど)」と
なるのはいやだなとおもいます。
正直、そのような人達が目の前に居たとき、「関わらないほうがよい」のが一番安全なのですが、、何もしないことの罪悪感を感じます。
話を聞いてあげるとか、少しでも自分にできることはないかなぁと思います。
偽善的な行動かもしれませんが、、
安全の範囲で、、
丹下覚元様もご回答ありがとうございます。
本当にその通りだと思います。
一人一人が善玉菌を広める活動をする人間性を求めること、またその方向(やさしさ、あたたかさ、人として向かわせる真の方向性)は仏教から学べるということ、勉強になりました。
「悲しいですがそこにとどまることなく、誰も苦しむことのない世界を作る活動」
そうですよね、前に進まないといけませんね。
悲しみで何が正しいのか、頭が混乱していましたが、頂いた言葉を胸に、正しい方向に進めるよう気持ちをリセットしたいと思います。
★吉田俊英さま★
どんな人にも愛語をもって働きかけることが大切であるということですね。
自分の精神が強くないと、なかなか難しいですね。
ここで頂いた教えについて、ずっと考えていました。自分にできることはないか、自分を強くするにはどうしたらいいか、脅えてるだけじゃだめだと、、
先ほど自分を鼓舞して、身近な無敵の人に電話をかけてみました。元気?と声かけてみよう!と思ったのですが、電話は繋がりませんでした。
これからも、少しずつでも周りに愛を与えて、自分をつよくして、安心を手にいれられたら良いな、と思います。
その道筋となる仏教の教えについて、どうかこれからも教えてください。