マナーと自由の境界線とは
こんばんは。
例えば、「私は赤い服を着ている人を見るととても不快になるので、皆には着てほしくない」と思う人がいるとします。
でも、赤色が大好きな人もいて、「どうしても着たい!なんで他人から服を決められないといけないの?」という人もいます。
着るのは自由だけれど、それを不快に思う人がいることも事実です。
どちらも正しくて間違ってはいないはずなのに、どちらかをとればどちらかが不自由な思いをしてしまう。
例は極論ですが、世の中こんな事ばかりのような気がします。
私は、周りへの配慮と個人の自由の境界線がよくわかりません。
相手を不快にさせることは良くない事だけれど、それを気にしすぎていると自由が無くなっているように感じます。
とても簡単な事ですが、私自身でいくら考えても納得できる答えが出ず、なんとなく生き辛く感じます。
どういう場合配慮を優先させるのか、自由を優先させるのか。マナーとは一体何なのでしょうか?
皆さんのお考え、教えて下さい。
ご回答お待ちしています。
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配慮とは生きづらさのシェア
主宰者に合わせるのが一番、分かりやすいです。
例えばお店のルールを決めるのは、そのお店の主宰者である店長さんやオーナーさんです。
店長さんが「ウチのお店のドレスコードとして、赤い服はN.G.です」と決めたら、そのルールは尊重しないといけません。お客さん側には「そのお店には行かない」という自由はありますが、「そのお店のルールを変えてもいい」という権限はありません。
もし赤い服が苦手な人が1人暮らしなら、自分の家のルールは自分で決めればいいでしょう。もちろんその自由にはリスクもあります。お客さんたちに納得してもらう労力が発生しますし、お客さんの何割かは来てくれなくなるかもしれません。そのリスクと天秤にかけることが、自由というものです。
じゃあ公共の場ではどうかと言いますと、『公』が主宰者です。つまり法律や条例、憲法。それらに「赤い服を着たらいけない」という決まりはありませんね。
この場合、ぶっちゃけ特定多数に配慮を求めるという非現実的な方法より、本人の心の生きづらさとして臨床心理士さん等の適切なケアを受けたほうが、『本人にとって断然、楽』です。何でもかんでも他人が配慮すればいいわけではありません。
そんな風に主宰者のルールを前提として、その人が『なぜ赤い服が不快なのか』聞きましょう。「災害の悲惨な場面ばフラッシュバックするから…」のような事情があるか、せめて「何か事情があるんだな」と伝わるなら、ルールを曲げて配慮してあげればいいでしょう。
でも、「赤い服ってキモいんだよね」みたいな自己中野郎だったら「知るかボケ!」です。
配慮とは、生きづらさを分かち合って、みんなで背負うことです。他人に配慮を求めるということは、他人に生きづらさを少しづつ背負ってもらうよう、お願いすることです。だから配慮を求めるにはそれ相応の事情がないといけませんし、それ相応の敬意と感謝をもって求めるべきです。
敬意と感謝が無いと、「赤い服を着るなんて不快!」と「赤い服を着させないなんて不快!」という自己中と自己中がぶつかり合ってグッチャグッチャの社会になります。必然的に喧嘩になる配慮なんて馬鹿馬鹿しいでしょう?
ポイントは
①主宰者が決めるその場その場のルール
②ルールを曲げるに値する事情かどうか
(※基本的には、本人の生きづらさとして克服すべきこと)
という感じでいかがでしょうか
配慮と自由の境界線として決まったことがマナーです。
マナー自体も
時・場合・場所によって変わりますから
難しいです。
例に挙げた「赤い服」も
半数以上が不快に思うなら控えるべきですが
実際はそれが分からないから難しいんですよね。
今は個性的であることの許容範囲も大きくなりましたから
そう気にしなくても良いように思います。
あなたが
もし周囲の目が気になったなら
そこが境界線だと認識しましょう。
自己責任で取捨選択
周囲の人の意見を聞いたりコミュニケーションをとって、谷の反応を予想するための情報を集めます。
そねうえで、どうするかはあなた自身の選択です。
メリット・デメリットを考えます。
周囲に嫌われる覚悟でお葬式に赤い服を来て行っても良いのです。
極端な話、警察に捕まる覚悟で犯罪を行うことだって可能でしょう。
まずは、周囲の人とコミュニケーションをとって、「何をやったら嫌がられるか」情報を集めましょう。
で、「嫌がられたってかまわない」と自分で選択するなら、それも良いでしょう。
質問者からのお礼
和田隆恩さま、願誉浄史さま、大慈さま、ご回答誠にありがとうございました。
このような質問をさせて頂いたのは、最近よく直面する、ツイッター等のSNSで個人個人の嗜好に対して、それを「不快だから公にするな!」と大勢で個人を叩くような場面で思うところがあったからです。
嗜好といっても、一般的に理解はされにくいかもしれないけれど、法に接触するわけでも他人を傷つける意図もありません。でも、大多数が不快だからという理由で、個人の行動に強要するのはどうなんだろうなぁと感じていました。
私にも不快な物事はありますが、誰かがSNSの公に公開していても、「まぁ人それぞれだし、私は嫌だけど、この人は好きなんだなー」と思う程度です。それが誰かを傷つける意図があったり、犯罪でない限り他人が介入する事ではないと考えていました。
大慈さまの仰るとおり、自己中と自己中がぶつかり合ってるような状況に見えました。
だから、配慮配慮って何様よ!知るかボケ!と思っていましたが、「お互いの生きづらさを分かち合うのが配慮」という言葉はとても新鮮な考え方でした。配慮は当然の事じゃなくて敬意と感謝を持つことが大切、とても納得できました!
きっと、求める側もこんなに嫌なのに公の場で不意に見せられる事はとても生きづらいように感じていたのでしょうね。
とても考えが深まりました。私も、誰かに何かしらの事情があって配慮を求めるとき、大慈さまのお言葉を思い出して気をつけようと思います。ありがとうございました!