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マナーと自由の境界線とは

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有り難し有り難し 56

こんばんは。

例えば、「私は赤い服を着ている人を見るととても不快になるので、皆には着てほしくない」と思う人がいるとします。

でも、赤色が大好きな人もいて、「どうしても着たい!なんで他人から服を決められないといけないの?」という人もいます。

着るのは自由だけれど、それを不快に思う人がいることも事実です。
どちらも正しくて間違ってはいないはずなのに、どちらかをとればどちらかが不自由な思いをしてしまう。

例は極論ですが、世の中こんな事ばかりのような気がします。

私は、周りへの配慮と個人の自由の境界線がよくわかりません。
相手を不快にさせることは良くない事だけれど、それを気にしすぎていると自由が無くなっているように感じます。

とても簡単な事ですが、私自身でいくら考えても納得できる答えが出ず、なんとなく生き辛く感じます。

どういう場合配慮を優先させるのか、自由を優先させるのか。マナーとは一体何なのでしょうか?
皆さんのお考え、教えて下さい。
ご回答お待ちしています。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

配慮とは生きづらさのシェア

主宰者に合わせるのが一番、分かりやすいです。

例えばお店のルールを決めるのは、そのお店の主宰者である店長さんやオーナーさんです。
店長さんが「ウチのお店のドレスコードとして、赤い服はN.G.です」と決めたら、そのルールは尊重しないといけません。お客さん側には「そのお店には行かない」という自由はありますが、「そのお店のルールを変えてもいい」という権限はありません。

もし赤い服が苦手な人が1人暮らしなら、自分の家のルールは自分で決めればいいでしょう。もちろんその自由にはリスクもあります。お客さんたちに納得してもらう労力が発生しますし、お客さんの何割かは来てくれなくなるかもしれません。そのリスクと天秤にかけることが、自由というものです。

じゃあ公共の場ではどうかと言いますと、『公』が主宰者です。つまり法律や条例、憲法。それらに「赤い服を着たらいけない」という決まりはありませんね。
この場合、ぶっちゃけ特定多数に配慮を求めるという非現実的な方法より、本人の心の生きづらさとして臨床心理士さん等の適切なケアを受けたほうが、『本人にとって断然、楽』です。何でもかんでも他人が配慮すればいいわけではありません。

そんな風に主宰者のルールを前提として、その人が『なぜ赤い服が不快なのか』聞きましょう。「災害の悲惨な場面ばフラッシュバックするから…」のような事情があるか、せめて「何か事情があるんだな」と伝わるなら、ルールを曲げて配慮してあげればいいでしょう。

でも、「赤い服ってキモいんだよね」みたいな自己中野郎だったら「知るかボケ!」です。

配慮とは、生きづらさを分かち合って、みんなで背負うことです。他人に配慮を求めるということは、他人に生きづらさを少しづつ背負ってもらうよう、お願いすることです。だから配慮を求めるにはそれ相応の事情がないといけませんし、それ相応の敬意と感謝をもって求めるべきです。

敬意と感謝が無いと、「赤い服を着るなんて不快!」と「赤い服を着させないなんて不快!」という自己中と自己中がぶつかり合ってグッチャグッチャの社会になります。必然的に喧嘩になる配慮なんて馬鹿馬鹿しいでしょう?

ポイントは
①主宰者が決めるその場その場のルール
②ルールを曲げるに値する事情かどうか
(※基本的には、本人の生きづらさとして克服すべきこと)
という感じでいかがでしょうか

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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配慮と自由の境界線として決まったことがマナーです。

マナー自体も
時・場合・場所によって変わりますから
難しいです。

例に挙げた「赤い服」も
半数以上が不快に思うなら控えるべきですが
実際はそれが分からないから難しいんですよね。

今は個性的であることの許容範囲も大きくなりましたから
そう気にしなくても良いように思います。
あなたが
もし周囲の目が気になったなら
そこが境界線だと認識しましょう。

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おきもち

和田隆恩
 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生ま...
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自己責任で取捨選択

周囲の人の意見を聞いたりコミュニケーションをとって、谷の反応を予想するための情報を集めます。
そねうえで、どうするかはあなた自身の選択です。
メリット・デメリットを考えます。
周囲に嫌われる覚悟でお葬式に赤い服を来て行っても良いのです。
極端な話、警察に捕まる覚悟で犯罪を行うことだって可能でしょう。
まずは、周囲の人とコミュニケーションをとって、「何をやったら嫌がられるか」情報を集めましょう。
で、「嫌がられたってかまわない」と自分で選択するなら、それも良いでしょう。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

和田隆恩さま、願誉浄史さま、大慈さま、ご回答誠にありがとうございました。
このような質問をさせて頂いたのは、最近よく直面する、ツイッター等のSNSで個人個人の嗜好に対して、それを「不快だから公にするな!」と大勢で個人を叩くような場面で思うところがあったからです。
嗜好といっても、一般的に理解はされにくいかもしれないけれど、法に接触するわけでも他人を傷つける意図もありません。でも、大多数が不快だからという理由で、個人の行動に強要するのはどうなんだろうなぁと感じていました。
私にも不快な物事はありますが、誰かがSNSの公に公開していても、「まぁ人それぞれだし、私は嫌だけど、この人は好きなんだなー」と思う程度です。それが誰かを傷つける意図があったり、犯罪でない限り他人が介入する事ではないと考えていました。
大慈さまの仰るとおり、自己中と自己中がぶつかり合ってるような状況に見えました。
だから、配慮配慮って何様よ!知るかボケ!と思っていましたが、「お互いの生きづらさを分かち合うのが配慮」という言葉はとても新鮮な考え方でした。配慮は当然の事じゃなくて敬意と感謝を持つことが大切、とても納得できました!
きっと、求める側もこんなに嫌なのに公の場で不意に見せられる事はとても生きづらいように感じていたのでしょうね。
とても考えが深まりました。私も、誰かに何かしらの事情があって配慮を求めるとき、大慈さまのお言葉を思い出して気をつけようと思います。ありがとうございました!

「世の中・社会のできごと・風潮」問答一覧

現代社会と本来の豊かさについて

悩みというよりは漠然と考えてしまうことがあります。        私は会社を起業し10年ほどになります。     会社とは何か?という本を設立当初に読み、 そこには『社会に必要とされているもの。人の役に立っているから存続が出来、人の役に立たない会社はなくなっていく』と書かれていました。     右も左も分からない中での起業でしたが、自身にそのような志が強くありましたし、その本に書いてある言葉に納得し、一生懸命頑張ってきました。     設立前から準備していたことや、業界を分かっていたこともあり、心身の苦しさや辛さはありながらも、経営は順調に右肩上がりで伸びていきました。 しかし、何処かでとても苦しさのような葛藤がずっとあります。     社会がいかに利益追求型の仕組みで弱肉強食であることを肌で感じること、それでも日々闘い続けねば生き抜けない。 競争社会、資本主義社会という中では当たり前のことだと理解すればするほど。 中小企業の社長さん達も皆んな日々闘い続けているんだなぁと思いながら。     そういう渦中で、自分の心身はいつも振り回され乱れるばかり疲弊する日々が数年続き、 自身を見つめ直したり心を丈夫にする為に色々と模索してきました。     そうした中で見つけたものは、お釈迦さまの教えや禅的な考え方でした。   日本では宗教にハマると聞くと直ぐに悪い意味で捉えられることが多いですが、 何か目印になるような共感できたり学べるような考え方というものに救われることに有り難さが溢れてきて泣きそうになります。   自身が人の為になることを〜と思い起業しましたが、会社を通して社会を知り、そこに向き合った今の時点で想定もしていなかった答えがあったように感じています。   知り合いに若いお坊さんがいますが、もっと遊びましょう、もっと休んでください、自分は人生遊んで過ごします。とよく仰っています。実際夜遅くまで飲みに行ったりしていて、誘ってくることも多いです。(行きませんが) そのお話しも極端に思えて、私には失礼ながら浮世離れしすぎていてついていけません。   長くなってしまいました。 文章がまとまっておらず伝わっているか不安ですが、 お坊さん達は今の資本主義社会と仏教の教えに乖離を感じますか? 感じられる方はどうバランスを取られていますか?

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

日本が一番ではない

僕が24年間生きている中で日本が一番ではありません。みんなは日本が一番だと言ってますが。日本つまらないし毎日刺激もないし変化が全くありません。サッカーの試合も見ましたがあまりつまらなかったです。なんかサッカーにはスター選手いないので面白くありませんでした。Jリーグの試合見ましたがつまらなかったです。ラグビーの試合見ましたが一方的な展開すぎて全くつまらなかったです。しょうもなさすぎました。日本脱出したいです。お金がないので今年全く関西から出たことがありません。出てみていろいろ体感してみたいです。何も楽しくありません。学生生活も全く楽しくなかったです。 日本生きてますが個性が全くありません。日本人も何となく生きてる人が多いような気がします。日本も少子高齢化が年寄りやおっさんが多いような気がします。僕にとっては楽しくもありません。ランダムチャットも利用しましたが喋ってみても全くくだらなかったです。ランダムチャットしましたがしょうもない人多かったです。考えも偏っているようにも思えます。日本には閉塞感がありすぎてつまらないです。日本楽しくもありません。日本は真面目な人多いので過ちや誰にも迷惑かけてない人が多すぎて万引きやカンニングなどの過ち犯したり人に迷惑かけたり(それは当たり前ですが…)失敗したら許されない国なので自殺者も多いのではないかとも思います。日本自殺大国になると思います。 日本人も世界情勢や世界のことに興味がない人が多いようにも感じます。 日本の気候も暑さ寒さの寒暖差が激しすぎて日本の四季に耐えれず嫌になります。 東京も行きましたがサラリーマンが多く殺伐とした風景や混雑が激しすぎて嫌になります。 今までも教習所で高圧的にされたことや偉そうにされたことやバイト先でも上司があまりにも態度悪い人もいて日本が一番とも思いません。たまたま人の答案が見えてしまったりしました。やっぱり日本悪い国だなと思います。みんな日本いい国やいい国やと言ってますが僕はそう思いません。 僕が思う日本のいいところは治安がいいところと料理が美味しいところと生活水準が高いところぐらいです。どこの国もいいところは最低1、2個はあると思います。 やっぱり僕にとっては日本が一番ではありません。

有り難し有り難し 12
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日本に盛り上がりが全く足りないです

今、大阪にいますけど閉鎖的で盛り上がりもなく楽しくありません。地下鉄に乗っていますが表情が暗い雰囲気を作って楽しくもありません。夜もアメリカのようにパーティーみたいな盛り上がりもなくて寂しいです。日本は閉鎖的な国だとも思います。 ラグビーワールドカップ2019イングランド対アメリカではかなり賑やかやったしパーティーしてたようにも思えます。結構、日本よりも盛り上がっていたようにも思えます。イギリスやアメリカはパーティー文化がある国にも思えます。イギリスやアメリカの方が個性的な人いたような気がします。 アメリカ行ったことがないので自分には分かりませんが日本よりも個性がある人が多いようにも思えます。 僕にとっては10年前頃ですが、明光義塾北巽教室通ってた時は個性的な先生もかなり居ましたし、活気もありました。まあまあパーティー的に盛り上がっていたと思います。明光義塾北巽教室では賑やかでワイワイしてて僕にとっては楽しかったのです。明光義塾北巽教室Twitter(現在はX)では個性感半端ないな。キャラ感凄いなと書いたらいいね1つくれました。親には明光義塾北巽教室勉強するところやのに遊びに行ってた所が怒られました。 そういうの日本ではなかなか無いから寂しいです。日本の閉鎖的な環境が辛すぎてたまりません。パリピみたいな盛り上がりが好きでたまりません。日本は雰囲気が暗い国だなと思います。 日本生きるのが活気と盛り上がりが無さすぎて辛いです。日本人って個性が全くない人ばかりでつまらないです。僕の近所でも全くパーティーみたいに騒ぎがないのがつまらないです。 日本は治安も良くてご飯が美味しいと言う理由からいいって言っていますけど僕はそう全く思わないです。 日本は衰退国家だなと思います。日本は閉鎖的すぎて嫌になります。日本に生きていてもつまらなさすぎて嫌になります。だからアメリカ移住したいです。 四谷学院の校舎長に言われましたが大学は盛り上がりはないと言われ、寂しいです。辛すぎます。大学でも遊びに行っている人や騒ぎに行っている人もいると思います。僕は日本が大嫌いです。日本は同じことばかり過ぎてつまらないです。 サテライトオフィス平野に通っていますが、その事が悩みすぎて集中出来ないことがあります。 日本では盛り上がりや活気が全くないので暗いし寂しいししんどいです。

有り難し有り難し 10
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日本は姥捨山を求めている

「今の日本は傾いているから誰かを犠牲にしたい」という感情が蔓延している、ということを声を大にして言いたいのです。だから、私のような無能は人権を放棄しなければなりません。そもそも、労働に縛られている時点で普通に生きられている人間にも人権がないからです。 増税や経済的負担に対する抜本的解決がない以上、「障害者をガス室送りにしなければならない」「生産性のない人間をガス室送りにしなければならない」という思想が蔓延するのは必然です。価値のある人間しか生きることを許されないのです。 社会や世界全体への不信感が強烈で、もうどうにもならなくなっています。けれど生きるには労働しなければなりません。私を傷つけ苦しめ貶め殺すためだけの場所に入っていかなければなりません。そうしないと人権が買えないからです。 自分を殺さないと人権が買えない。けれど人権を買ったところでいつ足元が崩れるかわからない。自殺推奨活動のほうがよっぽど慈悲深く思えてしまうのですが。 こんなクソみたいな世界で、どうして自分を殺してまで生きるしか方法がないのでしょうか。どうして、不幸になるしかないこんな世界がいまだに続いているのでしょうか。この怒りをどうしたらいいのか全くわからないのです。 壁を殴ったらヒビが入る。そういう、自分のアクションに対して当たり前の反応が返ってくる、という経験が薄く、その度に苛立ちが募ります。自分が気にならない、話を聞いても何が悪かったのかよくわからないことで長々と詰められ、こちらの言い分は何一つ聞き入れられない。そういう不公平さの中で生きてきたので、何に対しても「自分を殺せばいいじゃない」としか思えません。だって、人間は自分以外の誰かが犠牲になることを望む生き物ですから。私は誰の犠牲になれば良いですか?私の代わりに誰が犠牲になってくれるのですか? どうせどう生きたって誰かに支配されたまま終わるのです。そうしないと人権が買えないから。現実を見れば見るほど嫌な気持ちだけが募ります。この世界に救いはない。あるのは泥のような絶望だけ。はーあ、努力とかくだらない。今まで言われてきた沢山の言葉に対する恨みが消えない。でも他人から見たら悪いのはぜーんぶ自分。やってられない。どうせ「悪いのは私でした」という反省のポーズしか望んでいないのだからロボトミー手術を受けなければ私はこの世界に生きる権利を与えられない。

有り難し有り難し 15
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やはりこの世界は信用に値しない

また新たな戦争が始まりました。明日は我が身でしょうか。 「報道しない日本メディアはダメだ」と言われています。私たちは平和ボケしているのでしょうか。まあ日本が戦争に巻き込まれるのも時間の問題ですね。私たちに未来なんてない。現実なんて汚らしくて残酷なものでしかない。 この世界のシステムに耐えきれなくなった憎悪が世界中で噴出し騒乱を巻き起こしているマクロな事実と、そんな完璧ではない人間という生き物から一方的に「あなたが間違っている」「あなたが変わればうまくいく」と言われ続けたミクロな怒りが混ざり合って何もかもが馬鹿馬鹿しいとしか思えません。だから生きているのが嫌なんだ。 仏教だって結局、生きるも死ぬも理不尽しかないものだから何か納得できるだけの理由をこねくり回した結果でしかないでしょう。「全部私が悪いので悔い改めて、私の全部をこの世界に捧げます」と生きなければこの生命という不愉快極まりないシステムから解放されないのですか。喜んで火の中に飛び込む兎になれと。結局望まれているのは自己犠牲じゃないですか。生き物は、自分のために自分以外のものが犠牲になることを望んでしまうものなのです。 どれだけ努力したところで、自分とは関係ないもっと大きなものによって簡単に潰される。この国のシステムも欠陥だらけで有事に対応できると思えない。いつ殺されるかわからないから、いま生きていることに感謝すべき? そう思うにはこの世界はあまりにも汚らわしすぎます。ずっと言ってきましたよねこの世界は生きるに値しないと。その決定的証拠がまた一つ増えたんですよ。生きるも死ぬも誰かの天秤の上。人権なんて初めからなかった。第三次世界大戦はいつ起こりますか? 私たちは死ぬ準備をしなければなりません。 薄氷の上の平和すら貴重品となってしまった世界で、その平和の中にいながらうまく生きられない罪悪感。自分の在り方を否定され続けてきたが故の「どうせ自分なんていらないんでしょ」という感情と閉塞感。秒読みとなった戦前危機に対する焦り。人間という生き物への困惑。未来に対して絶望視しかできない。こんな世界の中でどう生きろと。けれど何を言われても響きはしない自分自身に対しての苛立ち。今の世界を見ても美しいと言えるでしょうか。 結局、傲慢でなければ生きられない世界。2025年を迎えられるといいですね。きっと無理だろうけど。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ