ご自分の死と死後の問題について納得・解決されていますか?
聖職者の皆さんは、ご自分の死と死後(あるのかどうか分りませんが)については、どのように理解・納得されて日々を過ごしておられますか?
現代科学の教えるところは、死は肉体の消滅であるばかりでなく、意識の消滅でもあります(意識は脳が作り出しているもの)。
死によって生前の努力が全て消滅することを考えると、虚無(ニヒリズム)に陥ります。古来の哲学者の中には、このニヒリズムに陥ることが当然だ(そうでない方が人間らしくない)と教えてきた人達もいます。
こういう状況で、信仰に進む以外に救われるものはないのではないかと私は考えているのですが、聖職者はこの避けることのできない死の問題をどのように解決できているのでしょうか?
是非ご教示ください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分の行いを拠り所に、教えを拠り所に。
お釈迦さまは2500年前に亡くなりましたが、我々仏教徒はお釈迦さまの影響を受けて生きています。人の行いは、何千年経っても消滅しません。たとえ肉体が消滅しても、意識が消滅しても。
無名の人々の行いにしても、忘れられてはいますけど、何千年、何万年経っても決して消滅しません。私たちが今、この地球上で生きていることがその現れです。
だから仏教は2500年間このように言い伝えています。
「悪い行いをすれば、悪い結果になる。善い行いをすれば、善い結果になる。」
「悪い行いをせず、善い行いをして、自分自身の習慣を調える。それが仏教です。」
世の哲学者が虚無主義に陥るのは、自分のことしか考えていないからです。
子や孫に、世界に、善い結果を残せるよう善い行いをして生きれば、きっと胸を張って死んでいけますよ。私たちも生物ですから、自然と恐ろしいかもしれませんが、それでもきっと、胸は張れますよ。
子や孫に、世界に、善なる人生を布施して死にましょう。
そのためにはまず、悪とは何か?善とは何か?仏道に親しむことが肝要です。
念仏すれば極楽浄土に往生できる
浄土宗では、南無阿弥陀仏と念仏を称(とな)えれば必ず極楽浄土に往生できると考えます。
南無阿弥陀仏と念仏することが浄土宗の修行の中心です。
死後のことばかり考えている暗い宗派と思われるかもしれませんが、実はそうではありません。
死後に極楽浄土に往生できると「決まっている」のだから、二度と死後の心配をしなくて良いのです。
ベタなお坊さんギャグですが、
「死んであの世から戻ってきた人がいないところを見ると、きっと極楽浄土はよほど素晴らしいところなのでしょう。」
質問者からのお礼
ご助言ありがとうございます。
ご助言ありがとうございます。