本当に人生で無駄なことはありませんか?
人生に無駄なことはないという言葉をよく耳にします。多分、成功したり夢を叶えたりした人はそういう実感が湧くのだろうな、と思います。
今までそれを信じて生きてきましたが、最近本当にそうかな?と思います。
私は今まで失敗続きで、今あるものといったらその残骸と借金くらいです。
友人と連絡を取る気もおこらず、連絡が来てもルーズに返事をし、年々友人は減っていっています。
疲れやすい上に憂うつな日が多く、これからのことも何も進みません。
家族には散々迷惑をかけました。離れて暮らしている今も色々気にかけてくれ、それに甘えている自分がいます。
自分でなければ、家族はもっと幸せだったのにと思います。
動物を何匹か飼っています。彼らはいつも心を癒してくれます。でも、毎日疲れが取れず、彼らの世話を負担に感じる日もあります。そう感じた時、彼らが可哀想になり、自分はなんて価値がないのだろうと思います。
そして、私にとって大切なものとは、結局自分にとって都合のいいものなのかと自己嫌悪に陥ります。
私は傲慢で上から目線、自分本位で思いやりに欠けていました。そんな自分に価値があると思い込んでいました。
私の前半生、何もかも無駄だったのではないかと思います。
そう感じているいま、後半生、何を心の支えにして生きたらいいでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
行動には結果がついてくる。心の修行。
たとえば自転車を数メートル走らせただけでも、肉眼では見えないレベルですが自転車のタイヤが磨耗しています。
そのように、どんな些細な言動や行為も、自分自身のカルマとして未来の自分に何らかの結果を残すのではないでしょうか。
たとえば、怒れば怒るほど怒り癖がつくかもしれない。盗めば盗むほど盗み癖がつくかもしれない。怠けれは怠けるほど怠け癖がつくかもしれない。
仮に失敗しても、何かに精進すれば精進するほど精進癖がつくかもしれない。
善いこと(修行) をすればするほど、ストレスを感じにくい平安な性格になるかもしれない。
だから、目に見える成果ではなく、自分の心の成長に役立つ修行をすることが重要です。
幸せを感じやすい性格になるため、悩み苦しみを感じにくい性格になるために。
無駄かどうかはわからない
harukana様
無駄かどうかは、ただ、そう思えば、そうなり、そう思わなければ、そうならない、まあ、「こうだ」と決められないものでございます。
仏教的には、難しく申せば、「空」ということで、「実体」としてあり得ていないものとなります。
もちろん、「空」と言っても、何も無いということではありません。ただ、事象・現象に対して、そうだと分別する私たちの側の捉える心のありようにより、そう名付けられているだけのものとしてあり、では、そのものの実体、そのものの本質はどこにあるのだとして、それをいくら探そうとして探しても見当たらないものとなります。
今は、ただ、貴女様が、「無駄かもしれない」と思うことによって、「無駄」としてしまっているだけであり、実体としての無駄というものは実はどこにも無いのであります。
と、上記のことは難しいことですので、今はあまり深く考えなくても良いですが、良い諺があり、「人間万事塞翁が馬」、「禍福は糾える縄の如し」というものがございます。
どうせ悪くとらえても、落ち込み、後悔するだけとなり現実的に益となることは無いのですから、良いように捉えて、ニュートラルにか、それかポジティブに考えることも。
ようやく自分の至らなさに気付けたことがあるならば、ここからでも挽回が可能です。
気付けて良かったとして、これからの糧とされますのも。
ちなみに、価値というものも同様に「空」です。「価値は無い」とそれを実体として捉えて囚われてしまってはいけませんよ。。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
回答いただきありがとうございます。
今まで人に話せなかった悩みでしたので、丁寧にお答えいただき感謝しております。
回答いただいてから何度か読み返しました。
これからも「無駄なんじゃないか」と感じる瞬間が何度となくあるかと思いますが、その度にいただいたお言葉を思い出し、折に触れて読み返そうと思います。