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分かりません

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仏教ってなんですか。お答えをいただく度に分からなくなりました

私達相談者皆凡夫という意味ではなにも変わらないのに、もうひとりぼっちだと嘆く人には「私達は友達です」と言い、「友達になっていただけますか」問うと「私達は向かないんじゃない?」と仰います
お坊さんにも人を選ぶ権利はありますが、同じ仏教なのに相談者に対してか分かりませんが、お坊さんによってあまりの温度差に猜疑心と言うか、混乱というか、相手を選ぶ基準というか、形容しにくいのですがよく分からなくなりました

今まで相談にお答えいただいた皆さま方へ。
私なんかの回答に、傷ついたこともありましたが、お時間と労力を割いてくださり、ありがとうございました。
さようなら

2019年9月22日 1:46

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ここはあなたにとって決して耳触りの良い回答ばかりが来るわけではありません。仏教の立場に立ち、あるときは優しくあるときは厳しく答えが入ります。たったひとりの方の回答で、全ての回答を「もういいですさようなら」とシャットアウトするのは、あなたにとっていい方法ではないと思います。

2019年9月22日 11:42
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・曹洞宗/静岡県/50代 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、...

悩み苦しみの原因を消したり制御したりする教え

仏教とは、悩み苦しみの原因を消したり制御したりする教えだと思います。
悩み苦しみの原因とは、私たちの心の中の煩悩です。
煩悩を消すとは、真理を悟ることです。煩悩が消えると、煩悩に伴う悩み苦しみも消えます。
煩悩を制御するとは、煩悩を消してはいない(悟ってはいない)人でも、煩悩を多少コントロールでき、煩悩をコントロールすることで、悩み苦しみを制御できるのです。
煩悩を消す(悟る)のは難しいですが、煩悩の制御は私たち凡夫にもけっこうできます。
たとえば、怒りの煩悩を消す(怒らなくなる)のは難しいですが、怒りを素早く鎮めるなどは、私たち凡夫にも可能です。
仏教は、悩み苦しみを消したり制御するためのコツを説いています。
注意点としては、新しいコツを身につけるためには、自分を変えなければならないので、自分のキャラや自分の考え方、自分のプライドを少しずつでも破壊していく必要があります。
お坊さんの回答内容の中には、質問者自身の変革を迫るアドバイスもあり、質問者の中には、そのアドバイスを「攻撃」だと感じる人もいますね。 
しかし、お坊さんの回答は、質問者のバージョンアップを迫るものであって、攻撃ではないのです。
なお、仏教で「善友」のことを「善知識」とも呼びます。仏教の知識を教えてくれる人が善友、善知識です。
お坊さんが、同級生とか遊び仲間とういうイメージの友達にはなれなくても、善知識にはなれるかもしれません。

2019年9月22日 11:49
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浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

仏教は心の安心の為にあります

質問拝見しました。また、過去の質問も拝見しました。
まず、教学的に仏教には様々な経典、考え方があり、それぞれに主張が異なります。
そして、それを解釈する人間によってやはり意味が若干異なります。
本当は解釈する人間の部分は不要で経典に書かれている事が全てなのですが…
それでも仏教は心の安寧、安心の為にあります。今回はその仏教を広げる我々の言葉で傷ついている事、申し訳なく思います。
さて、友人についてなのですが、一緒に遊ぶ人、寄り添う人、相談をする人、される人、助ける人、助けられる人、攻撃する人、される人…人間関係は複雑で沢山の関係性があります。
でもそれらは全て細かいことです。何故なら一緒に遊ぶ人の中に上記全て内包してるし、親とだって遊びます。
つまり、友人という言葉でむりやり括る必要はなく、その時隣で一緒に寄り添えればそれだけで何よりではないでしょうか?
決して馬鹿にするわけではないのですが、NHKのドレミファどーなつ?という幼児番組のオープニングに
『一度あったら友達で毎日あったら兄弟だ』
というフレーズがあります。
人間関係はこんなに単純では無いですが、しかし、このフレーズは仏教に凄く近い尊い考え方だと私は思っています。
僧侶だから友達とか難しく考えず、一個人として一緒にいたい人、信じられる方に相談、愚痴を言ったりしてみては如何でしょうか?
直接面識は無くとも、ハスノハの僧侶様方は既に友人関係であると思いますので。

2019年9月22日 7:01
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日蓮宗の僧侶をしております 祖山での修行、荒行を終え現時点での精一杯でお...

質問者からのお礼

お礼が遅れてしまい申し訳ありませんでした
相談に応じてくださるだけでも感謝すべき事なのに、真摯にお優しい言葉でそっとお声掛け頂き、有り難いやら恥ずかしいやら…
情けない私めですが、未熟ゆえお付き合いいただければ幸いです
本当にありがとうございました

「お坊さん・僧侶全般」問答一覧

嫁ぎ先がお坊さん便を使うこと

死後の世界はわからないものだとこちらでも他質問でいくつか拝読いたしました。 現代では亡き親族の供養の仕方は様々かと思います。いろんな考え方があって当たり前だと思うのに、いざ自分のことになると気持ちがついていきません。 私は名家出身とかでは全くないですが、両親はあるお寺の檀家として必要だと思うことはやってきておりました。父は亡くなっております。 私自身、それが普通だと思って生きてきまして、嫁いだら私の実家のお墓に入れなくても、宗派は違えども、嫁ぎ先のお墓・御先祖を大切にし、供養や法要等やるものだと思っていました。 しかし、主人の実家では檀家などの概念がありません。そのような考えがない方も現代にはいらっしゃると分かってはいます。 こちらでも、葬儀は必要なのか、法要は必要なのか、お墓は必要なのか、、、などと、類似の質問はあるかと思います。 ただ、義祖父の亡き後、葬儀はお坊さん宅配便…法要は最低限…。なんだか寂しいような、理解できない気持ちになってしまいました。 ですが、そのときに来ていただいた和尚さまには私としては感謝しかありません。 私自身、正直仏教について詳しく存じている訳では全くありませんのでこのような質問をさせていただくこともどうかとは思うところもあります。 ただ、気持ちの置き所をどうしたら良いのかわかりません。厳しいお言葉でも構いません。何かお示しいただけたら幸いと思い、質問をさせていただいました。よろしくお願いいたします。

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乞食と喜捨に関する考え方

こんにちは、托鉢や乞食に関して、周囲の理解を得たいです。 私は地方都市に住んでいるのですが、街中でよく托鉢を行う人を見かけます。 お財布にゆとりのある時には小銭程度ですが、托鉢を行う方にお分けする事もあります。 …しかし、基本的に一緒に居る連れにはいい顔をされません。 「仏教には喜捨という概念があって、捨て去る事を有り難いと思う、そういった機会を与えてくれる事に感謝するっていう考えがあるんだよ」と説明はするのですが、あまり納得してもらえません。 私は小額で人の為になれれば嬉しい、そんな程度の考えで托鉢をなさる方に施しをします。 ですが、連れには大体の場合、「ああいうのはホームレスとかが僧侶などに変装してやっている。何も知らない人の善意を踏みにじる行為だからそんなものに手を貸すなんて」という具合の反応を返されてしまいます。 連れの言いたいことはわかります。ですがそもそも喜捨に関しては相手が誰だろうと関係ないものと認識しています。 しかし、それを連れに言ってしまうのまるで大事な連れを分からず屋扱いしてるような言葉になってしまいそうな為、いつも「小銭でも喜ぶんだからいいだろ」と終わらせます。しかしその言葉もまた托鉢をしてる方を、私が悦に入るための道具扱いしてるようであまりいい気分ではありません。 ところで私は敬虔な仏教徒ではありません。 人の為にどうのというのも、昔やっていたボーイスカウト活動にて「困っている人を助ける機会は善行を積む機会を頂ける」という考えを持っているからです。(この辺りは喜捨と似ているかもしれませんね) そのせいもあって、あまり詳しい仏教的な教えなどは語れなくもあるのです。 長文乱文になってしまいましたが、要は人は助け合うべきものであり、自分もいつホームレスの方々のようにモグリの托鉢や乞食をせねばならなくなるかわからない以上、誰かに何か出来る時はしておくべきだと思うのです。 こういった考え、仏教的な価値観を持たぬ身近な人に、角を立てずにわかってもらうにはどうしたらいいでしょう? わがままな話ですが、友人は大切なので「アイツは変わり者だ」と思われて距離を置かれるのも、「なんだか面倒くさいヤツだ」と思われて距離を置かれるのも嫌なんです。 支え合いこそ人類の本質にして美徳、そして自己のためでもあるのだとただわかってもらいたいのですが……

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坊さんなのにこれからの将来が見えない

実家が寺で、仏教系の大学に通っている僧侶見習いです。 僧侶が社会システムにおいて必要とされる意義が「人に仮初の夢を見せて心のケアをする」以外しか見いだせなくてこれからの将来に絶望しています。 僧侶は、昔みたいに医者の代わりや教員の代わりをする訳でもなく、月回向や葬儀関連で人々の心を慰めるくらいしかしていません。 僧侶が利益(りえき)を得ることを人々は否定します。実際、聖職であるが故に本来は金銭を対価に何かをするというのはあまりに俗に塗れているような気がします。布施はそれ自体が神聖なものであることは分かっています。 しかし結局のところ、(観光という商売をしている寺は除いて)寺やそこにある僧侶という存在は「嘘をついて金を檀家さんや信者さんから貰う」ものに過ぎないのではないか?と思ってしまっているのです。 道徳を説くならそれはカウンセラーでも哲学者でも構わないわけです。 では僧侶が持つ他とは違うアイデンティティとは何かと言ってしまえば「仏教という仏になる為の指針」なのですが、結局のところ今の今まで人の身で完全に釈尊(応身)と同じステージに立った者もいない訳で。 本当に仏となることが出来るかも分からない教え、しかも数多の偽典があるであろう経典の内容を引いてきて、悩める人々に滔々とそれを説く。自分の中ではこれから自分がなる僧侶という職は、そんなもののように思えてしまいます。 私よりも遥かに経験を積み、たくさんの経典を読んだここにいらっしゃるお坊さんの方々に、私の悩みをただ、聞いて欲しいです。そして願わくは、自分の中の仏教に対する、僧侶に対する悪感情を解く何かを教えて欲しいです。 散文的になってしまい、申し訳ありません。宜しくお願いします。

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