小学生時代に。
過去の酷い過ちについて相談させてください。
私は小学生2年生の時に、学校の課題として川柳を書かされました。その際自分では全く考えつかなかったので授業中友達が答えた例題をそのまま盗作して提出してしまいました。それがなんと町の川柳コンクールで入賞してしまったんです。
コンクールに出すとも知らず盗作してしまいその表彰式には自分の作品でないのにと罪悪感をやや持ちながらどこか捻くれた感情も持ちながら出席したのを覚えています。
大人になってもこの嫌な罪悪感のエネルギーは残ったままです。
このまま自分は過去に過ちを犯したと思い引きずりながら生きていかなければいけないのでしょうか?どこかで成仏できる方法はありませんか?
自分の黒い部分に占領されてしまう。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あるある
笑いました(笑)いや、怒らないでくださいね、他人から見れば笑っちゃうくらいの出来事だということです。だって小学生ですよ?その年でなさったならゲスの極みですけど、小学生ですよ?それもそこから神童扱いされてプロ川柳のエスカレーターを昇り始め、今では詩聖ならぬ川柳聖と呼ばれてしまっていて…とかいう話でしたら白い目で見ちゃいますけどね、たかが町のコンクールですよ???考えすぎです。
のだめカンタービレで千秋先輩が峰くんを「どうせ子供の時にコンクールで入賞して神童とかチヤホヤされてその気になっちゃった口だろ、よくある話だ」みたいな感じでバッサリ斬っていましたが、それが自己陶酔に向かったか、自己否定に向かったかだけの違いです。コインの裏表です。よくある話です。
私だって商店街のお祭り用ポスターの宿題で、落語のCDの裏ラベルにある「大入り」を描いて提出したら佳作もらっちゃいましたわ。しかも父が共犯です(笑)大入り部分と背景の縦縞は別々のCDを参考にして描いたので多少は上手くやっていますけどね。
さて、そうは言ってもですね、そこでそれだけ落ち込める感性は美徳ですよ。某隣国と某隣国に見習わせたいくらいです。日本の宝です。ただ、ここから1つだけ教訓を抽出しましょう。
「自分が意図せずやったとしても、然るべき結果が待っている」
仏教系大学の講義の受け売りですが、「これは泥棒じゃない、泥棒じゃないと念じながらだとしても、パッと盗っちゃった瞬間、その行いが泥棒です。同じように、これは仏じゃない、仏じゃないと念じていても、仏の行いをすればその瞬間、仏です。」
おそらく私の昨日の回答をご覧になってのご質問と思いますが、ああいうのだけでなく、これもまた成仏です。
では仏の行いとは何か?感謝と敬意を持って他者に接することです。出入口でアッチから来た人と鉢合わせちゃった…そんな時、ちょっと後ろに下がって一言「どうぞ」と言ってあげる。相手が会釈しながらちょっと微笑む。こちらもちょっと晴やかな心になる。それが感謝と敬意。相手の存在そのものに感謝と敬意を供養しちゃうのです。それが仏の心であり、仏の行い。
それをやればやっただけ成仏です。それを1つでも多く1つでも多くやれば、行いの余波が未来に向かいます。それが多ければ多いほど、善いエネルギーとなるでしょう。
質問者からのお礼
ありがとうございましたm(__)mm(__)mm(__)m
感謝と敬意の気持ちをもって少しずつ成仏していけたらと思います。
本当にありがとうございました!
気持ちが少し晴れました☆