こちらの心が無くて、あちらの心が動くでしょうか?
いつもお世話になっております。
ゆうりです。
お坊さんの、一言というのは、何故こうも、身に染みるのか。
お坊さんは、話上手です。(この言い方は怒られてしまうでしょうか?すみません。)
気になりました。
タイトルは、以前の質問で頂いた、今、大切にしている言葉です。
私は、将来研究者になるにしても、農業高校の先生になるにしても、(ノンプロで噺家、漫才師、芸人になるにしても)喋るという行為は、不可欠で欠かせません。
特に先生というのは、人間をつくる(あえてひらがなです。)職業であり、また農業を通じて命を慈しむ力を育んでもらわないとなりません。
さらに、私が噺家もを目指すの理由というのも、弱い奴に立ち上がってほしいからです。社会の皺寄せは弱者に来ます。そういう人に、立ち上がってほしいからです。
さて、「こちらの心が無くて、あちらの心が動くでしょうか?」
この「心」という部分があるから、「周りの友達」ではなく「hasunoha」に救いを求めるのだと最近思いました。私もその一人です。
その熱い「心」はお坊さんの場合は、「修行」によって培われているのは言うまでもありません。
(私の場合は、理由が異端なだけに、「信念の強さ」で解決出来てしまうかもしれませんが・・・)
しかし、私たち質問者は、どのようにそれを鍛錬すればよいのでしょうか?
その「心」どうしたら磨かれるでしょうか?
自分磨きというものは「自分が自分をするのみ。」「自分が自分の行を行うのみ」
精神的な強さを得るためには、「自分が自分を学んでいくこと。」
そう、以前にお言葉を仰ぎました。
これの継続によって得られるものなのでしょうか?
また、これだとまだ何か、足りないでしょうか?
お手数をおかけしますが、お手おすきの時間がありましたら、回答の方を宜しくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
内、虚にして外、事あるのみ。
あなたの質問は、他の人からすると意味不明でしょうが、核心を突きつつあります。
うまく表現ができないだけでしょう。
まず、今これをご覧になられているでしょう。
それは誰の様子ですか。
他でもない、あなた自身の活動ですよね。
外の側に、この文字、このことがある(と思うのが一般常識ですが、そうな)のではなく、あなたの身の上の側に一字一字がボーンと現成されている。
内も外もないでしょう。観ている自分も眼も忘れられているでしょう。
この画面から目を離して当たりの景色に目を向けてください。
壁がある、景色が映る。あなたの外側に景色があると思われるでしょうが、実際は厳密には「あなたの身の上の様子」(アナタ側に行われていること)なのです。
あなたがそこに居なければその事はあなたの上に映じられることはないからです。
目耳鼻舌体心の六感、心身全体で、みている事、聞いている事に(あなたが)「そのもの」になっているでしょう。
「私がそのもので、そのものが私自身」。
かつて今まで、あなたのこと以外に何かありましたか。
人の事を気にしているのも、あなたの様子でしょう。
故にそれは他人のこと、外の事ではなく、あなたの身の上に行われていることではないでしょうか。
ですから、だからこそ、であるが故に「人生は一生、自分の事しかない」と知るべきです。
あなたが追いかけている女性に対してあれこれ思うのも、自分。
フラれた、うまくいった、相手が気になる、あれこれ思うのも全部、一生、自分。
「自分が自分の向かっている、そのこと(PCなりスマホなり見ているものなり、聞いているものなりを)
ただ、そうしているだけ」でしょう。
それが人間の実相です。
自分の心が無い、ということではなく、
みている自分、観察している自分とかいう意識も忘れられているでしょう。
鍛錬、とかじゃありません。
自分が物事への正しい在り方が確証された時に、おのずと他者から見れば、肝がスワっているようにも、冷静、平常心、不動にも観えるだけのこと。
何故なら、自分自身をしっかり観ているからです。
覚者は、常に自分に目を向けている。
外のことはないのだから。外の事とアタマの中で思うでしょうが、すべて自分の上に行われていることだから。
自分、外界、向かっているモノゴトへの正しい認識、処し方がハッキリする事が本来の仏教であると知るべきです。
「機」
ゆーりさん、お久しぶりです。なごみ庵の浦上です。
「お坊さんのひと言が身に染みる」と仰いましたが、それにはまず、ゆーりさんが聞く耳を持っているからです。聞きたい、学びたいという意識があるから、私たちの言葉を有意義だと受けとめて下さっているのではないでしょうか。
さて、教師になったとしても噺家になったとしても、人の心を動かすのは非常に難しいことです。少し前の質問(自分を大切にして欲しい時〜)でもそうですが、ゆーりさんは人の気持ちを動かしたい、という思いを持っているように感じます。しかしそれを目標にするのは避けた方が良い気がします。
どんな偉人であっても、聞く側の機が熟さなければ、人の心は動かせません。
でも時には、心無い人の言葉でも聞く側の機が熟していれば、響くことだってあります。
教師になっても噺家になっても、相手の気持ちを動かそうなんて思いは、脇に置いて、一所懸命に自分の為すべきことをする。それしか無いのではないでしょうか。
あちらの心を動かす心
ゆーりさんこんばんは
それは相手のことをちゃんと見て相手のために耳を傾け、真剣に相手の為を思って応えることによって養われるのだと思いますよ
案外これは難しいです。私たちは会話をすると素直に話を聞くのではなく「どうやって答えようか」「そうやって間違いに気づいてもらおうか」などと違うフィルターを通して対応してしまうことがあるからです。
つまり相手を理解する前に自分の意見を押し付けようとしてしまうことがあるんです。
そして、熱い心というのは時として正しさという姿で現れることがあると思います。「これはこうした方がいいんだ!!」って
自分は正しいとは思いすぎない方が良いと思います、自分は正しいと思うと頑固になりますし、相手に自分のことを押し付けてしまうこともあります、つまり相手のことを受け入れていないことに気づけなくなることもあると思うんです。
もちろんこちらに心がなくては相手の心は動きようもありませんよね、でも今のままではまだ足りないんじゃないか、まだ未熟なんじゃないかってことはあまり思わなくていいと思います、私たちも一緒に学び続けている仲間ですから、一緒に磨いていきましょうね^^
熱い心よりも、私は受け入れる心が大切かな~なんて思いました^^
あるがままなり
ゆーりさん、はじめまして。
ボクは真宗大谷派に僧籍をもち、住職をしておりますが、いわゆる修行というものをしたことはありません。ただお念仏申せと、お念仏を唱えることが唯一の行であると学んできております。
お念仏とは、あるがままの私を受け入れ救いを求める言葉です。好ましくない自分、他を選び、嫌い、見捨て、怒り、腹立ち、妬み、嫉む私をなんとか正当化して、ツジツマを合わせて生きている愚かな私をしっかり見つめなおし、受け入れる。
そんな愚かな私が、その私を自分自身が受け入れる言葉、南無阿弥陀仏(阿弥陀如来に帰依する言葉)を唱えることによって、阿弥陀如来は選ばず嫌わず見捨てず、その愚かなまんまのあなただから救いましょうと受け入れてくださいます。
愚かだからしょうがない、そう開き直るわけではなく、愚かな私が自己正当化することが、ご縁ある周囲の人たちをを傷つけ貶め泣かせていることにつながっていることに気づいていく。そんな愚かな私でも、ご縁によって生かされ救われます。
自分とは、他人がいて初めて認識できることです。その他とのご縁によって成り立つ私を「おかげさまで」と言い、感謝できる自分であるかどうかが常に問われてあるのではないかと思います。
回答になっていないかもしれませんが、主体としているつもりの自分は、他があって成り立っていることの認識が大事かと感じます。
合掌
「達磨安心」
ゆーり様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
禅問答「南嶽磨磚」を以前の回答にて扱わせて頂きました。
この度は、禅問答「達磨安心」をご紹介申し上げたくに存じます。
「達磨面壁。二祖立雪断臂云、弟子心未安。乞師安心。磨云、将心来。與汝安。祖云、筧心了ニ不可得。磨云、為汝安心竟。」
「達磨面壁し、二祖、雪に立ち臂を断ちて云く、弟子、心、未だ安からず。乞う、師、心を安んぜんことを。磨云く、心を将(も)ち来れ、汝が與(ため)に安んぜん。祖云く、心を筧(もと)むるも、了(つい)に得べからず。磨云、汝が為に心を安んじ竟(おわ)んぬ。」
達磨大師は、(中国)禅宗の開祖です。壁面に向かって坐禅をしている達磨大師に対して弟子入りを請う、後の(中国)禅宗・第二祖となる慧可大師とのやりとりとなっております。
雪の中で面壁している達磨に対して、慧可は自らの腕を切り落として、その覚悟の程を示して、教えを請おうとします。但し、この腕を切り落としたというエピソードは、それほどの覚悟で弟子入りを望んだということを表すための創作的なものというのが通説となっています。
慧可、「心がいまだに安らかとならずに、不安でございます。どうか、この心を安らかにして下さい」
達磨、「では、その不安になっている心を取り出してください。そうすれば、あなたの心を安らかにしてあげましょう」
慧可、「その心を探し求めましたが、結局、見つからずに得ることができません」
達磨、「はい、これで私はあなたの心を安らかにしましたよ」
実は、こちらの(自分の)心も、あちらの(他の)心も、実体の無いもの、つまり「空」であり、本来捉えることのできないものでしかありません、しかし、何かその心というものに実体があるかのように、その心の状態(特に悪い状態、不安や恐怖など)にもとらわれ(執着)を起こしてしまって、苦しんでしまっているありようをしっかりとまずは理解しなさいということを達磨大師は慧可に伝えたかったのでございます。
ただ、実体は無くとも、心は「縁起」として、一応は「ある」と言えるものでございます。その心を善い状態に保つには、善い「縁」がもちろん必要であり、そのためには、悪を成さずに善に励み努めることが仏教の基本として大切になる次第でございます。
川口英俊 合掌
ゆーりさま
開運寺 秋山現信です。
行 おこないは一生 生きてる間が 修行です。
人間は 忘れてしまう動物 過ちを繰り返してしまいます。
お釈迦様は、即聞即行 すぐ聞いたら直ぐに行え とお示しです。
また、ある高僧(日蓮聖人)は、行学二道 とおっしゃっております。修行も学問も大切。しかしながら学問の前には、必ず行 行いが伴います。
実は修行のはじめは、まず 聞くことから始まります。人間の行動も聞くことからはじまります。
お母さんのおなかにいるうちから。
答えになっているかどうか解りませんが、行 修行は 一生死ぬまでです。
質問者からのお礼
光圓寺のShun Ichikawaさんへ
ご回答有難う御座います。相手の事をどれだけ受け入れることが出来るかが、大事なんですね。
確かに、誰かを感動させたり、笑わせたりといったこととは、「相手の心を動かす」点では同じでも、少し見方が変わってきますもんね。
私は教育者になるかもしれません。ですから、父兄生徒からの相談をよく受けるかもしれませんが、今回のご回答を肝に銘じ、精進していきたいと思います。