しつこくてごめんなさい
何度も同じ出来事のことで相談させていただいております。ご回答頂けると嬉しいです。
同居の義父に暴言を吐かれた事が未だにひっかかっており、私がその言葉をどう受け取りどう処理し、今後どう行動していったらいいか悩んでおります。
気持ち的にはどん底からは這い上がってきましたので、ごちゃごちゃだった私の頭の中を整理できるようにはなってきました。
でもやはりあの発言だけはどうしても許すことができず、流すこともできず、謝罪か発言の訂正がされないと前に進めない状態で立ち止まっております。
私が1人で意地を張っていると言われればそれまでなのですが、どうしても納得できません。
なぜ私がモラハラ発言を受けなければならないのか、悔しいし、憎たらしく思えて、私より何年も長く生きている人間なのにまだ謝ることもできないのかと幻滅する一方です。
けれどあちらはほとぼりが冷めたと思っているのか、ちょっとずつ普段通りに接してくるようになっています。
けれど私はそう簡単に普段通りには戻れません。
お墓参りや、大晦日と正月は毎年一緒に過ごす事になっているのですが、今の状態では一緒に行動したくない気持ちと、家族じゃないと思われているならお墓参りも年末年始も一緒に過ごす必要はないでしょという気持ちと、逆に家族じゃないと思われているのに図々しく旦那にくっついて一緒に過ごしたほうが義父を困らせることができるのかもという気持ちとで答えが出ません。
お坊さんは、義父の言葉をどう受け取って処理し、今後家族で一緒に行動しなくてはならない時どのように行動していったら良いと思われますか?
お答え頂けると幸いです。よろしくお願い致します。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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家族じゃないならなんなのよー
義父に家族じゃないと言われたことはショックと思います。私もそのように言われたら接し方が分からなくなりそうです。これから書くことはあなたの捉え方を変えるための助言と思って下さい。根本的な解決はやはり時間が必要です。
①合わない人には会わない
これは義父はあなたのことが嫌いというか、距離を置いているのでしょう。だから必要以上に会わない。会いに行かない事をお勧めします。嫌な人に無理して会う必要はありません。お釈迦様も「我は老医なり、服すと服せざるは医の咎にあらず・・・」(遺経より抜粋)と言っております。意味は「わたしは医者のようなものである。患者の症状を診て、薬を渡すが、それを服用するかしないかは医師のするところに非ず、患者の気持ち次第だ。」という事です。だからあなたの責任ではありません。縁が満たされてないのです。
②赤の他人が家族になるというのは傲慢です
そもそも他人です。家族になるかどうか、なれるかどうかは気持ちや心構えの違いです。でも、何か困ったことがあれば、人は他人であろうと手を差し伸べます。他人であろうと助けてくれます。世の中には血のつながった家族でさえ、助けあわないこともあります。それほど家族になる事は重要でしょうか。親戚や知人や友達ではいけませんか?道元禅師は「出家をしたなら、父母の恩に報いるためにも、親孝行をするのではなく、生きとし生けるものを敬いなさい。それが孝行になる。・・・」(正法眼蔵随聞記より抜粋)と言っております。
必要なことは家族になる事ではありません。好きな人も嫌いな人も関係なく困っていたら手を差し伸べる事が大切なのです。
以上、2点のことはやはりあなたの気の持ちようと言葉の捉え方に左右されると思います。今は義父にそう言われたことが気にかかっているかもしれませんが、最終的に家族の一員と言われるかもしれない。それはお釈迦様でも分かりません。
ニュースを見ていると家族同士で憎しみ合ったりDVをしたりしている家族も要ることもお忘れなく。本当の「家族」とは何か?という事を考えるいい機会ではないですか。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
あれからずっと義父との接し方が分からなくなっていて、うまく立ち回ることもできない自分に、あんなひどいことを言われたんだから義父とは関わらず無視や凛とした態度でいいはずなのにそうすることに自信が持てずできない自分にも幻滅していました。
ですが、必要なことは家族になる事ではなく困っている人がいたら手を差しのべる、そう教えて頂き少し気持ちが楽になってきました。
「家族じゃないならなんなのよー」たしかに、と思いました。義父に家族と思われなくてもいい、家族にならなくてもいい、そしてどうでもいい!と少し思えてきました。本当にありがとうございました。