勉強する意味
中学生の息子のことです
もともと学力は普通以上でしたが、中学入学後、勉強をしなくなりました
色々と悪事を行い、ただいま児童相談所のお世話になっております
児相の方いわく
息子が勉強をしないのは、勉強する意味を見いだせないからではないか、やる気になれば、学力は十分あるので、力を発揮できるはず
私自身、両親が中卒だったこともあり、学歴は大切だと親から聞かされていましたし、貧乏な家庭に育ったので将来お金の苦労はしたくたい、と思い、何の疑問もなく勉強していました
しかしながら、息子自身勉強する意味が分からないと言います
お坊さんは、勉強する意味とは、いかなるものだと思われますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人のために。
亀山純史と申します。
なぜ勉強をするのか。以前にこのhasunohaで回答したものを基に、再度、回答させていただきます。
私も中学生、高校生の頃は同様の問いに悩んでいました。その頃の私の答えは、漠然と自己の成長のために、というものでした。そんな中、私の高校時代の倫社(倫理社会)の恩師(恩師はクリスチャンでしたが)は、「勉強は人のためにするものだ。今君たちが学んでいることのどれが、いつ人のために役立つのかわからない。だからこそ、今、多くのことを学び、将来、人の役に立つ人間になるために、勉強しているのだ。自分のために勉強しているという考えは傲慢な考えだ。」と言っていました。当時の私は「勉強は自分の成長のためにするものではないか。」と思っていましたから、その先生の発言は非常に理解しがたいものでした。
それから20年近くが経ち、世界的に高名な仏教学者であった中村元氏の死を通して、当時の恩師の言葉の意味がわかったような気がしました。中村氏は、ご自身の死の直前まで学問に打ち込まれた方でした。もはやそれはご自身のためではなく、後世へ引き継がれていくべき人類の遺産を作り上げる作業ではなかったのか、と思えたのです。中村氏が亡くなられた時、私はすでに大学を卒業し、現在の職業(普段は高校の教員をしています)に就いていました。その頃の私は、やはり、「自分のために勉強をするんだ。」としか生徒には言っていましたが、中村氏の死を通して、考えが変わりました。
仏教の教えに「自利即利他」があります。自分を益することが他を益することへ繋がらなければいけないのです。
勉強する目的は自分の成長だけを求めるのではなく、必ずや将来において自分の学びが他を幸せにする、という思いがあるところに、勉強する目的はあると思います。従って、あなたの学びを必要としている人が必ずいるという思いを持つこと。それが勉強しようとする第一歩ではないかと思っています。
以上が私からの回答です。
人の進む方向を形作るから
小泉政権の時の文科相がこのようなことをおっしゃっていました。
「確かに今は電卓やエクセルで難しい計算もできる時代になった。しかし、電卓を打って0を1つ2つ余分に押して計算してしまった時、あれ?おかしいな?こんなハズはないのだが?と思える。その感覚が真の学力です。その感覚を育てねばならない。」おぉ〜、なるほどぉ〜と思いました。確かにそのような感覚は訓練せねば身に付かないでしょう。
私が修行道場1年目だった時の話です。ある日、朝のお粥の配膳をする係だったのですが、調理場から配膳台で運んで蓋を開け、ギョッとしました。お粥のお米が…少ない…妙にお湯が多い…料理係の修行僧がお米の分量を間違えてしまったのです。
隣にいたA君が怒ります。
「ただでさえ朝はお粥で、昼夜は一汁三菜の質素なご飯しか食べられないのに、粥も食べれねぇのかよ!フザケンナ!」
時間と共に心身が修行生活に慣れてくるとそれでやっていけるのですが、上山したての成人男子には食べた直後からお腹が空いてくる食生活です。おまけに食べるくらいしか幸福感の要素がありません。私も、近くにいたB君も気分が落ち込みました。
私はつぶやきました。「米がなければ粥を食い、粥がなければ重湯を食え…か…」困窮してもそのような気持ちで修行しなさいという古い禅のエピソードがあるのです。
それを聞いてB君はハッとし、「そうか!これが修行なんだね!これで良いんだ!」と叫びました。しかし、A君はボソッと「米がなければ粥も作れねーよ」と吐き捨てました。B君はこの言葉を勉強しており、A君は知らなかったのでしょう。たった一言の知識の差が、修行僧としての感性の差となり、その後の修行にどんどん差を付けてしまいます。
これはどの教科でも同じですよ。最初はテストの点の差にしか見えない違いが、やがて日常生活の1つ1つを方向づけてしまいます。だから大切です。
しかし、現代人は勉強と勉強ではないものを区別し過ぎだと思うのですよね。鶏鳴狗盗という言葉がありますが、本当はどんなクッッッダラナイことにも価値を見出せる感性が勉強の成果だと思うのですが、字数も残っておりませんし、その話はまた別の機会に…
あと、私が勉強を好きになったきっかけは『専門分野ができた』ことでした。結局それで教養科目の意義にも気付きましたね。
「学ぶ」ということは喜びである
大人「勉強しなさい」
子供「何故勉強しなくちゃいけないの?」
大人「いい高校に入れるよ」
子供「いい高校に入ったら何がいいの?」
大人「いい大学にいけるよ」
子供「いい大学に入ったら何がいいの?」
大人「いい就職ができるよ」
子供「いい就職ができたら何がいいの?」
大人「いい収入がもらえるよ」
結局、端的に言えば子供が勉強する意味はいい収入を得る為にするのだという認識がとても多いです。
それは決して悪いことではありませんが、それは勉学することの本当の意味にはなりませんし、収入を望まない人には全く通用しない論理です。
そうではなくて、本来勉学はすること自体が喜びであるものです。
自分が知らないことを知るのですから、自分の見識が広がり新しいものの見方ができ、今まで考えたこともなかった発想が生まれてきます。
大人になってようやくその楽しさが分かったという人は多いのではないでしょうか?
何かの目的を達成するために勉学するのではなく、勉学そのものが楽しいものであると教えるべきなのだと思います。
仏教は仏様の智慧から学ぶことが大切です。
私が知らないところを仏様から聞かせて頂きます。
お経には不思議な事がたくさん説かれます。
そこを学ぶことはとても楽しいですし、喜びですね。
まぁ、本音を言えば・・・
子供相手ですから「子供は黙って勉強しなさい!!!」という大人の姿勢も大切だとは思います。
勉強する意味はそもそもあなたはどう思っていますか
はじめまして
私の感じたことをお伝えさせていただきます
あなたは勉強する意味なんだと思っていますか
勉強する理由はそれぞれでいいと思います
別に強要することでもなく
本人がしたいこと、その中で勉強することが大切だと思えば
やる気を出し、するのではないでしょうか
ちなみに私は自分の知らないことを知りたいので
今も勉強しています
強制ではありません
したいからしているのです
あなたの気持ちを息子さんに伝えましたか
なぜ勉強が必要なんだと思っているか
今までの経験からの声を伝えてみるのはどうでしょう?
それでも勉強しなければそれも息子さんの選択
あとは親として見守るしかないのではないでしょうか
ぜひ参考にしていただけましたら嬉しいです
合掌
質問者からのお礼
皆さま、ご回答ありがとうございました
亀山様
高校の先生もなさっているとのことで、実は以前の問答、こちらに質問する前に拝読させていただいていました
斬新な切り口だと思いましたが、正直、中学生の息子には受け入れるのが難しいように思いました
大慈様
どんなくだらないことにも、価値が見いだせる…確かにその通り…と共感できるのも、私自身大人になって、色々と経験したから…やはり、高校生ぐらいまでは、そう言われてもピンとこなかったように思うのです
釈心誓様
学ぶことは喜び、
確かに大人になってから理解できるようになりました
中学生の(しかも、やる気を失っている)子供に自発的に勉強の目的や、必要性を感じてもらうのは、難しいですね…
鈴木秀彰様
勉強する意味とは?
私には分かりません
そこまで考えるまでもなく、
必要性を感じて勉強していました
私自身、親から勉強しろと言われたことは一度もありません
息子には自分の両親が中卒だったため、両親が離婚後、母親が就職に困ったこと、
職業によっては学歴が必要だということを言いました
皆さんにご回答いただいても、モヤモヤしています