積極的自殺
私は、受動的に生きるより能動的に死にたいと思っていて、今自殺することを考えてます。
というのも、自身の納得のいく死に方を見つけたことで、生きることそのものを目的として生きることが物凄く馬鹿らしいと思ってしまったからです。
ただ、このことを馬鹿正直に周りに話すと、猛反対されるどころか場合によっちゃ私が死ねないように病院や刑務所に放り込んだりするんじゃあないかと思って今凄く悩んでいます。
何故なら、他の人や社会の仕組みというのは、人間が生きることを前提として存在しているのであって、私のように「こんな死に方してみたい!」と思って自殺を切望している存在は有り得ないと思い込んでいると思うからです。
私は、自殺を切望するような切羽詰まった環境で生きているわけではないのですが、これから目的もなく社会の歯車になって、生き方を縛られることが物凄く怖いと思ってますし、大して興味もないのに人付き合いや結婚を強制させられる社会の風潮に凄く嫌気がさしています。そうして悩み続けた内に、「そもそも無理して生き続ける必要はないのではないか?自身の死にたい時に理想の死に方をする。その目的の為に生存という手段を取る、それが幸せなのではないか?」という結論に至り、自身の納得のいく死に方を見つけたことをきっかけに、現在終わり方から人生計画を立てています。
ただ一つ悩み事があって、それが周りの人が納得してくれないだろうな、ということです。
平和の中で生きている人は、家族や友人が明日も生きているという偏見を強く持っていると思います。また、両親や社会というのは、長年私に教育や栄養といった投資を私にした分、なんらかの形で私が恩返しをしてくれることを期待しています。ですが、私が自己満足の為に死ぬといえば、彼らがそうした期待や偏見から激怒して、私から与えた分を取り立てるまで死なせないようにするのではないか‥と思うのです。
誤解の無いように言っておきますが、私は他人に自殺を勧めるつもりはありません。ですが、人生の締め方として、積極的自殺という選択肢があることを理解して欲しいだけです。
あまりにも一つの命として狂ったことを相談するようで申し訳ないです。ですが、死ぬ前に誰かに理解して欲しいと思って、ハスノハに書こうと思った次第です。
何卒ご返事の程宜しくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
生きづらい価値観から引っ越しする
拝見いたしました。
積極的自殺、面白いお考えです。
自分も二度ほど自殺を考えているので、理解できます。
そんな私は自殺を肯定も否定もしませんが、少しだけお話を。
結婚には価値がない、結婚には価値がある。
そういった、ある対象にどの程度の価値を置くか、というのは価値観といいます。
あなたは、価値観の数を増やした方がいいかと思います。
一つの価値観にこだわりすぎていて、あまりに思い込みが深すぎる気がします。
例えば、結婚、といっても、お互いに束縛している夫婦もいれば、自由で干渉しない夫婦だっています。
性生活をしなくてもいいよね、という形もあるでしょう。
働くことが社会の歯車で受動的なものだ。
そう考えるのは早計です。
確かに、若いうちはお金が欲しくて働くものです。
その延長線上で働いている人は受動的でしょう。
しかし働いているうちに、やりがいや幸せを見つけて能動的に仕事をしている人もいます。
仕事が面白くなくても、同僚との協力や成長が楽しくなってくることもあります。
おっしゃる通りで、無理して生き続ける必要はないです。
だからこそ、無理して自分の価値観の中だけに生きる必要はありません。
他人の価値観の中には、結婚は幸せなもの、仕事はやりがいを感じさせてくれるもの、という捉え方もあります。
他人の価値観も知ることで、少しずつ自分の価値観が変わっていきます。
すると、さらに生きやすい価値観に引っ越しすることができます。
それはより幸せな体験を提供してくれるはずです。
小説や映画、アニメやドラマは価値観の更新に力を貸してくれます。
エンタメは感情を揺さぶり心を豊かにする。
ぜひエンタメを楽しんでみましょう。
あとは実際にやってみることです。
外から見るとつまらないものでも、案外面白いことはよくあります。
物事を決めつけて幸せを損なわないよう、より広い視野を持ってみてください。
それは本当に積極的であり能動的である選択か
ご相談拝読しました。
あなたが絶対にごまかしてならない問いは、「果たして積極的自殺は能動的なのか?」「選んだつもりが選ばされてはいないか?」ということでしょう。
>自身の納得のいく死に方を見つけた
はずが、
>人生の締め方として、積極的自殺という選択肢があることを理解して欲しいだけ
とすぐに他者からの承認・評価・価値観に振り回されている。
しかしそれはそもそもそういうものなのです。
独立して何にも影響されないような私など存在しないからです。
私=私を成り立たせるご縁(環境や対象や状況)
なのです。
あなたが本当に求めているのは能動的・積極的にやっているつもりになることでなく、受動的存在であることの積極的受用なのではないでしょう。
人間が考える程度のものは全部人間を縛るものです。現にあなたが考えたあなたの納得のいくはずの考えも既にあなたを縛り苦しめている。
何ものにも縛られない状態は仏教の目指す涅槃しかありません。
でもそこに達せなくとも、縛られている事実に頷くならば縛られたままでその事実を活かしていけるのです。
質問者からのお礼
他の方々のご相談でお忙しいと思われる中こんな質問に目を通して下さった御二方に大変感謝しております。
私は哲学の本を度々読む機会があるのですが、その中でよく取り沙汰されている自由意志の話や価値観の話によく似たことを御二方のお言葉に見て、仏道と向き合う方の聡明さに感服した次第です。
多大なる無礼を承知で申し上げますと、私は当初興味本位でこの質問をしただけに過ぎず、答えを見てから遠慮なく死のうと思っていました。
ただ、御二方の真摯なコメントを見て己を省みたことで、死という選択肢を見出したのは、生きることに興味がなくなった、つまり、生きるという選択肢を潰しただけだったのかもしれない、死に逃げたかっただけなのかもしれないと思い返しました。
価値観を広げる、見聞を広める為には生者の理に縛られ、死という選択肢を封じることになりますが、皆さんのコメントが背中を押してくれたお陰で、それもありかなぁ、と勇気が出てきました。改めて感謝のお言葉を述べさせていただきます。
今回お世話になった御二方、並びにハスノハで相談役を務めてくださっている皆様が心のままに生きられるよう、同じ空の下で願っております。どうかお疲れの出ませんように。