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素敵な考え方のヒントが欲しいです!

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有り難し有り難し 19

長文失礼します。

私の両親はうつ病を患っています。
特に母は自分の感情のコントロールが出来なくなることが多くて、泣き叫ぶことがあます。
正直、疲れてしまいました。

経済的面でも生活面でも学生時代などは祖父母にお世話になっていましたが、社会人になってからは両親と供に暮らし初め、月に給料の半分以上が生活費に消えていきます。

私は何のために生きて、何のために働いているのかと考えてしまってました。

両親とも病気をなんとか克服しようと頑張ってますし、私よりも辛いんだろうとは思います。

でも、どうしたらいいのか分からなくて辛くて自分の為にも生きてみたくてそれらしい理由をつけて一人暮らしをはじめました。

まだ幼い妹が精神的に影響をうけていないか心配に思っています。

私がちゃんとしていれば、私が耐えれば、もっとなんとかなったんじゃないか、
そう考えて、自分をひたすら責めて悲劇のヒロイン気取りみたいな感じです。笑

家庭のことを相談出来るひとなんていないし、
こんなんじゃ、結婚は難しいなとか、なんと言うか…
色々と将来のことも不安でたまりません。

妹には負担はかけたくないです。
なんだか、支離滅裂ですね。笑

どう考えたら自分を責めないで生きていけますか?

また、漠然とした不安を希望に変えれるような素敵な考え方のヒントを頂けたらと思います。
よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

PLAYERのリプレイ思考をやめMOVIEの◉RECスタンスで。

人間は心の中で反復、反芻、ループをする事があります。
過去に起こったことを、煮つめる、持ち返す、振り返ることです。
私が学んだ禅ではこれを「追認」「追尋」と言います。
過ぎた事を、今さら持ち返して、何度も手を加え、料理をなべごと黒こげにするような事。
今から3つの比較をします。
自分とお母さんがどちらかを見てください。
①ある人は、カメラでライブの映像を記録します。その場で起こっている最新映像です。それはリアルタイムの映像。
②ある人は、その記録化された映像をプレイヤーで再生します。そのデータはすでに過去の出来事。
③ある人は、さらにそこにコメントや評論、ツイートを書き込みます。
そこに自分の思いを加えて、ドロドロにします。
映像に罪はないのに、それを悪しざまにいうことによって、自らの心を汚します。
あなたを苦しめる煩悩ガスの発生源はどこでしょうか。
あなたの中です。
苦しみの原因は理解できたのではないでしょうか。
自分が自分の思いから自由になる。
それがあなたの仏道の始まりです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お忙しい中回答をいただき本当にありがとうございました。

私は過去のことを煮詰め過ぎてたんですね!
真っ黒焦げな鍋を更に火にかけている自分を想像して、滑稽でなんだか笑ってしまいました!笑

なんだか心が軽くなった気がします。

自分が自分の思いから自由になる。
少しずつ、そうなれたらいいな、なれるように視点をずらしていこうと思います。

本当にありがとうございました。

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