幼少期の行為を後悔し続け、行き場がない
小学校低学年にした自分の行いが許せず、いつもそればかり考えてしまいます。夜中に起きてそれについて考えてしまう、泣いてしまうことが度々あります。それが15年以上続いています。
具体的には、下記のようなエピソードです。
A子さんの持っているノートに、落書きをしている子が3人くらいいた。
その子たちに、あなたも書こうよ!と言われ、私もA子さんのノートであることを知りながらイラストなどを書いた。
後日、そのノートを発見した学童保育の先生から、A子さんの母に連絡がいき、A子さんが私のマンションを訪れた(私のイラストがあったため、学童保育の先生が私の住所を教えた)。
A子さんのお母さんはすごい剣幕で怒っていた。気圧されて、私は「やっていない」と嘘をついた。「ああそう」と言って、納得しない様子でA子さんのお母さんは帰っていった。その後、A子さんの兄も私のマンションを訪ねてくるなどあった(私の両親が対応したため、帰っていったので、案件はわからない)。
その後、A子さんには私と誰がその落書きに関わったか白状したが、A子さんのお母さんには言わないでほしいと言った。
・はっきりと自分がやったと言えなかった
・罪悪感に耐えきれず、A子さんには言ったが、A子さんのお母さんに言わないでと言った
これらの自分の矮小さが許せません。また、「やっていない」と言った時の、A子さんのお母さんの軽蔑した表情が忘れられません。
学業に励んで奨学金をとり大学院に行ったり、その他の活動に関しては満足しています。でも、何もしていない時間に非常に辛くなります。自分は生きる価値がない人間だと感じてしまい、罪を重ねること、人と関わるのが恐ろしいです。
ここ3年、ほぼ引きこもって生活しています。あのことは決して消えないんだと思うと悲壮感に暮れてしまいます。
自分の人生がもう完璧にならないことが許せません。いっぺん死んで、完璧に正しい人生をやり直したいという気持ちが消えません。
15年間、ほとんど毎日このことを考えてしまい、若干病的になってしまいました。
パートナーにもあまりにも毎回同じ話をするので呆れられています。
私はどうすれば今を生きれるでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
後悔を活かしてみてはどうでしょうか
拝読させていただきました、慈陽院の平本と申します。
今回は、過去の出来事でお悩みになっているのですね。
まず子供のときに人を傷つけてしまう人は、多いと思います。
なぜ多いのか、それは子供だからです。
未熟な子供のうちに色々と失敗経験をしたことで人の痛みが分かるようになったり、人を思いやる気持ちに気づき、大人になっていくのだと思います。
世の中に失敗をしない人はいませんし、この世界に完璧な人は、いないのです。
完璧に見える人でも失敗を語らないだけで、多くの失敗をしています。
そして失敗を反省し学び活かすことができる人に幸せな人生が待っていると思います。
この世界は、何が起こるか分からない世界です。そんな世界では、思い通りにならない事の方が多いのです。
つらい経験を活かして心を磨いてみては、どうでしょうか。
またお悩みごとがありましたら、ご相談お待ちしています。
あなたはマシンですか?
おはようございます。すでに平本師がお諭しですが、「人間は失敗するもの」です。
機械はそうじゃありません。例えば、携帯電話の電源スイッチを押しても反応しなければ、「何これ?壊れてる、ダメじゃん」というのも、まぁ分からないでもありません。
けれど、「自分が自分の理想通りに生きていない」ことを許さないのであれば、まさにあなたの言う思考に行かざるを得ない訳ですが、それを完遂すると、全ての人間はサヨナラです。あなたのご両親も、パートナーの方も、私も含めて。
理想というのは自由ではありますけれど、まあ勝手な自己中の産物とも言えます。あなたは落書きを自分の唯一の汚点と思っておられるようですが、そんなことないでしょう?これさえ解決すれば完璧…と思っているなら、むしろ「他の問題から目を逸らしているのでは?」とさえ思います。「同じ話ばかりして、パートナーを困惑させている」とか。
さて、文章からは、あなたがこれまで懸命に努力してきたことが伺えます。目標を立て、それに向かって邁進してきた。「許せない」という言葉の裏には、自分を叱咤激励してきた、怒りの感情も活力の源にしてきたことを感じさせます。それで相当、上手くやってきた、成功してきたのでしょう。
けれど、いまあなたは「私は失敗したことがある」という思いに苛まれている。それは、必要なことではないかと思います。あなたは機械じゃない。間違えることもある。失敗もある。それを受容することは、自分に対して優しく、そして他人に対しても寛容になれる道です。自分を許し、肯定して、懐の大きい人間になろうとしているのだと思います。
外へ出れば、みな「失敗したことのある人」だらけです。お互い様。だから相手を気遣い、自分も受け入れてもらって、支え合って生きていけるのだと思います。
追記です。「お礼」欄の書き込み、読ませていただきました。今回の問答では、私自身もとても考えさせられ、学ばせていただきました。実際のところ、「子供の頃の失敗を今でも許せない、後悔している」という質問は何度か目にしたことがあるのですが、貴女がご自身をよく見て言葉にして下さったので、「そういうこともあるのだ」という学びを、私も得ることができました。
こちらこそ、本当にありがとうございました。
質問者からのお礼
ご返信を下さり、有難うございます。
仰る通り、私は人間とは不完全な存在であることを認められず、それゆえに人間関係のトラブルも多かったと思います。たった一言、傷ついたら二度会わないように避ける、偽りの自分で対応して疲れる、自分が被害にあったことに関しても何度も思い出して憤慨する等...。
その一方で、ご指摘の通り、不完全に対する怒りを活力に、達成したい目標に対しては、文字通り、できなかったら死ぬ、という覚悟で打ち込んできました。マシンっぽいと言われたこと、あります。
このエピソード以外にも、私が後悔し自分を弾劾しているエピソードはいくつかあります。それらが代わる代わるやってきて、考え始めると止まらなくなっていました。膨大な時間を費やしてきました。ただ、このエピソードはそれらの記憶のなかで一番最初にあるものだったので、自分が正しくあれたはずの状態から外れることになった、自分を許せない状態になったはじめの分岐として執着していたのでした。
しかし、今回投稿してお返事を頂いてはじめて、自分がまったく、そもそも不完全に遠い存在なのだと、数えられるエピソードを後悔しても足ることはなく、また、だからといって、完璧でないことを責めることも間違っていて、不相応なのだと、思い至りました。
有難うございました。
誰か知らない人、でも信頼できる方に相談したい・・・という時にこのサイトを見つけることでき、とても有り難かったです。
また、このご縁に仏教についても学んでみようかなと思いました。
お二方のご回答に感謝いたします。