老いて死に向かう事
介護の仕事をしています。
そして家では相棒の20歳の猫が弱っていく様を目のあたりのして、
人間も動物も歳をとり身体が思うように動かなくなり肉体的にも精神的にも痛く辛い思いをするように思います。
なぜかはわからないけれど命には寿命があって、皆いずれ死なねばならない。なのになぜ命は、わざわざ苦しみやすく出来ているのか、
脳ミソが、老いて寿命が近くなったら自動的に幸せホルモンのようななにか痛みを緩和させて穏やかになるような麻薬物質でも分泌すればよかったのに(そういうものがあるかもわかりませんが)、なぜそのように進化せず、やはり苦しみがちになるのだろうかと疑問に思っているのです。
また、相棒の猫は確かに20年いっしょに暮らしてきた家族だけれど、言葉を通してなにをしてほしいか、なにが食べたいかを迅速に伝えられない訳だから、きっとひとりぼっちで寂しくて、体も痛かろう、初めて老いて初めて死に向かうのに淋しかろうと、100%助けてあげられなくてすまなくて悲しくて眠れません。
やはり施設で暮らす高齢者の方々も寂しい思いで暮らしているだろうと思います。猫と比べるなと言われるかもしれませんが、同じように思ってしまいます。
道元禅師の生死の巻で、薪と灰の話、
前後裁断があったかと思いましたが、
今の私には死はやはり老いた先にあるもののように思えてなりません。身体の細胞ひとつひとつが活動できなくなった先にある死で、やはり苦しまずにはいられないんじゃないかと感じてしまいます。
あのお話だったか、生と滅にそれぞれ“さきありのちあり”とあった気もしますが、なにか私が今目の前にしているものの解釈のヒントになりそうなのに、いまいち理解ができません。
わかりにくい質問で申し訳ないのですが、ようは、なぜ命は苦しまなければいけないのか、なぜ苦しむのに生まれてくるのか、そしてそれをずっと繰り返してきたはずなのに、脳ミソが苦しみを除外するよう進化しなかったということはやはり必要があっての苦しみなのかしらと素人考えをしているわけです。かといって私の相棒の猫さんが死に向かって1人老いて苦しむのは切ない事です。。。それらが不思議で切なくてならないのです。
自然の摂理だから仕方がない事なのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
そうして生きる意味を問いながら、いのちを繋いでいくのでしょう
本当にね。。。
なぜ、死んでいかなければならないのか。
それは、生を受けたからでしょうね。
そして、生きる中で出会い結ばれた縁により、人はそれを手放すのが恐ろしく苦しくなる。
仏教では、人生は苦であると説いていますが。
でも、死は、全ての終わりではなかった。
仏様のお救いに出遇うことがなければ、苦しいだけの人生であったかもしれない。
でも、死が不幸なことではなかったと、生まれていける世界があるのだと。それが、どれだけの安心か。
介護のお仕事、大変なご苦労もあるでしょうね。いつも、ありがとうございます。
私は、法務と同じように、施設や病院にいらっしゃるご門徒さんに会いに、施設訪問も大事にしています。
施設で暮らす高齢者が、必ずしも寂しい思いでいらっしゃるわけでもありません。お念仏をたよりに生きてくださっているお方は、その人生から命の在り方を学べと教えてくださいます。
人生を振り返り、いろんなことをお聞かせくださる中で、生きてきてよかったと、力強くお念仏を(信仰心)勧めてくださいます。
こうして、あとに続く私たちを導いてお育てくださる、そのお姿に、手を合わせずにはおれんのです。
老い病み死んでいくことは、決して むなしいばかりではない。
そこに、仏様のお救い、尊さがあります。
だから、私は、最期まで一緒に生きぬいてもらいたいと、施設訪問を重ねています。
その方の人生に、耳を傾けています。
医療福祉従事者や ご家族、縁ある人、みんなが、その人らしく生き抜くために、命の尊厳を守るために、その環境を整えていますね。
私たちも歩む道。そうして人は、生きる意味を問いながら、その いのちを繋いでいくのでしょう。 合掌
火とはなぜ?生まれ死んだらどこにいくのでしょう?
初めまして、こんばんは。
生きているから悩み苦しみ、そこから様々なことに気づきを与えて頂き成長をするのでは・・と思います。
人はなぜ?生まれてくのでしょう?その理由はない・・と思っています。
お釈迦様も、このなぜ生まれてくるのか?という問いに「無記」と答えています。
答えようがないという事です。そして、生まれてすぐに7歩あゆみ・・天上天下我独尊、三界苦我当度之(てんじょうてんげゆいがどくそん さんかいくがとうどし)と話されたそうです。”我”とは個々人のことです。私たち一人ひとり尊い存在であり、この世の困難や障害を取り除くことが出来るとも解釈できます。
六波羅蜜の六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)を人は行き来します。人は誰でも迷いながら生きていきます。色々なことに迷いながら人生の足跡を残していくのです。
お釈迦様も霊魂があるかどうかについても”無記”とあるともないともいわないとおっしゃっています。生きとしいきるものは必ず通らなくてはならない死。形あるものには終わりがあります。それを理解していても納得できない部分もあると思います。
”霊魂”私はあると信じています。あると思い生きる方が幸せだと思っています。そして、人は亡くなったらおわりではありません。
亡き妻も、父も、私の中で”霊魂”となり入って生き続けています。
相棒の猫ちゃんもその時が来た際は、hanakoさんの心にすっと入り生き続けるはずです。
大切な愛した人や家族のなかに霊魂となって入って生き続けるからこそ、そう言った依りしろになる方が居なければさみしい・・と思います。
亡くなったあと依りしろに現代に戻れるように・・家族や周りの人を大切にしていきたいです。そして日々の行いも死後の世界に影響があると思っています。
あなたらしい希望の人生を仕合せに歩めますように。
合掌。
質問者からのお礼
永寛さま
貴重なお時間より暖かいお返事頂きましてありがとうございます。何回も読み返しました。涙が出ました。
悟られたお釈迦様が無記といってしまうこの世の奥行きってなんかすごいと感じました。。私の相棒の猫さん、今はぐっすり眠ってますが、今一緒にいれる事をまず喜ぼうと思います。尊いですね。
ありがとうございました。
中田さま
ご多忙の中、親身になってお返事書いてくださったこと、本当にありがとうございます。今、猫さんがちょっと目を覚ましたところです。今は穏やかに過ごしているみたいです。
なるほど施設の高齢者さんたちみんなが寂しい思いをしてるとも限らないな、と思いました。侮ってはいけませんね。
仏様のお救いが、こういう小さな命にもあるといいなあと、思います。こういう小さな命も生きれる世界になりますようにと、祈りたい気持ちです。
ありがとうございました。