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お経について

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お経というものは誰に対して読むものなのでしょうか?

仏様でしょうか?

家に仏壇が無い場合は心の中で仏様に対してお経を読んだら良いのでしょうか?

ちなみに毎日朝昼夜に3回づつ般若心経を唱えています。

唱える頻度には問題ありませんか?

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お経はやるもの行ずるもの

レシピを言葉にしても料理はできない。
楽譜をドミソと口で読んでも音にしなければ音楽にならない。
知った知識は人生で活用しなければそれは行われない。
どんなにイイこと、良い事、広めた方がいい事があっても届く形にしなければ、それは広まらない、伝わらない。
どんなに好きな人がいても、その愛情や行為を伝えなければそれは伝わらない。

お経は読んでヨシ、聴いてヨシ、供えてヨシ、学んでヨシ、行じてヨシ。
かみ砕いて人に説くもよし。
内容を知って修行してもよし。
お経の内容を身心で明らめて自分も救い、相手も救い、世界を救うチカラにすればその功徳無量なり。
だからお経を「ソナ」えるのです。
どうせ人に差し上げるにしても、まず自分がその差し上げるものの最高の価値を知っておく必要があるんじゃァないでしょうか。
最初はわからんでもいいのです。
人生学びを深めていく内にいつか、その価値が本当にわかる日が来るものです。
天才料理人は小麦粉一つあればパンにもクッキーにもケーキにもうどんにもパスタにもチジミにもナンにでもできます。

うどんもチヂミもパスタもパンも、ナンも素材は皆小麦。
みんな違ってみんな、いい。
みんな違ってみなうまい。

おいしくする心があれば自分も相手もよろこばしくなるのです。
お経とは人生も出会いも教えも物事も「そのように」用いるべきことが説かれている人類の宝です。
その宝を宝ものにする、宝物として用いるようにするのが、真の宝の人「あなた」です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

お経は聞くもの

ご相談拝読しました。

お経とはお釈迦様が誰かに説いた説法です。生きている人に迷い苦しみから脱する教えを説いたのですね。

多くの経典は対告衆といって、お釈迦様が説法を説かれたその時その場にいた人たちの中から代表の者に向かって説かれる形をとっています。対告衆からの質問に答えて教えを説く場合や、釈尊自ら語りかけ始める場合があります。

ご質問の般若心経は観音菩薩から舎利子(しゃりし〔シャーリプトラ〕という弟子の名)に説かれる内容となっています。

え?お釈迦様が説いてないならお経じゃないの?と思うかもしれませんが、

「仏説魔訶般若波羅蜜多心経(ぶっせつまかはんにゃはらみったしんぎょう)=般若心経」

と、「仏説」が冠せられるということは、その内容がお釈迦様が説いた真理に適っているということです。

般若心経には「空」(くう)の思想が説かれています。「すべてのものは実体がない=執着しべきものなどない」という様な内容です。

ですから、般若心経を唱える時は、儀式としては仏様に捧げる形でも、お釈迦様からあなたに今、説法が説かれていると思い、唱えるのがベストです。

自ら唱え、自ら聞くのです。

ただ音として聞くのでなく教えとして聞く。それも、この私の迷いを晴らそうとする教えとして聞くのです。

お釈迦様が「あなたが今、執着しているそれは本当に執着すべきものなのか?」とあなたに呼びかけているといただきましょう。

頻度は問題ありません。

ただ、お釈迦様の説法を仏様にむかっていくら投げかけてもまさに「釈迦に説法」ですから、ご自身が聞ける範囲で唱えるのがよいのではないでしょうか。

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おきもち

個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

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