命に不公平さが生じる理由が知りたいです
はじめて投稿します。
僕は世の中の理不尽さが心底嫌で仕方ありません。
子供に対する虐待のニュースを見るたびに、本来ならその子にあるべき楽しみや訪れたはずの幸せを、なぜ奪われて中には命まで奪われなくてはならないのかと悲しいです。
動物の殺処分や虐待もです。この世に生まれてきた…ただそれだけの事なのに殺されたり、人と仲良くしたがるあの子たちに対して虐待する。
人間の子供も動物たちも「なんでそんな事するの?いじめないで」と、たとえ一瞬でもそんな悲しい気持ちになったのかと想像しただけで、泣くほど悲しいです。
なのに自分も含め、救えるのに救わない、世の中を変える努力も特にしない、きっとそんな人が大半を占めていて、一部では悪事を働き私服を肥やし思うままに生きています。
同じ命なのに、どうしてこの様な不公平が起こるのでしょうか?単なる運でしょうか?
あるいは幸せになる為に生まれた者と、一方前世のツケか何かで苦行の為に生まれて者との違いとか、そういう事なのでしょうか?
特に自殺願望などありませんが、この命と引き換えに子供や動物が助かればどんなに良いかと思っています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
不公平と理不尽を生じさせる者、その名を人間と言います
はじめまして、こんにちは。
「虐待」「殺処分」、その事実があふれていることに胸を痛めておいでですね。ご職業柄、そのような情報に触れることが多いとお察しします。私も、そのようなニュースが流れた時、思わず耳をふさぎたくなる時があります。想像するだに恐ろしいので。ただ、そこに目を向けようが向けまいが、現実として確かにあるのですよね。「この命と引き換えに子供や動物が助かればどんなに良いかと思っています」というお心に、他人事とせずに自分のことのように問題に向き合われるご姿勢に敬服します。
私は仏教を学ぶ上で、人間の理不尽さを教えてくれた言葉があります。それは、「人間みんな裁判官」という言葉です。世の裁判官は、法に沿って客観公正を心掛けられるでしょうが、かの言葉が意味する裁判官は違います。人それぞれが、自分の都合・常識という法を振りかざして裁こうとしているのです。その裁判官同士が自分たちの都合の最大公約数の合意のもと、現代のシステムが出来上がっています。それは、殺処分される動物を第一に考えるものではなく、人間を第一にするシステムです。そして、そのシステムを合意した者として私たちは、生活をしています。私たちは、不公平と理不尽を作り上げている側なのです。
しかし、逆に考えると、人間が作ったシステムなので人間が変えていくことも出来ます。今の動物愛護法も、虐待防止の取り組みも自己都合寄りの人間が出来るだけ弱い立場の人間に配慮していった結果、改善されてきたものです。それは、一概に嘆くばかりの悲観的状況ではないともいえましょう。それをさらに推進できるかどうかは、私たちの働きかけ、どんな政治家を選ぶか、どんな活動に身を投じるかにかかっています。命を投げ出したいと思うほどのそのお心持は尊いですが、今できることが沢山あるようにも思えます。
お釈迦様は、「人間の尊さはどのような身分に生まれたかにあるのではない、その人がどんな行いをするかにある」という趣旨のことを仰っています。前世云々、産まれ付きの幸不幸ではなく、自らの行動にこそキーがあると私は思います。
ご参考まで。
ある寓話を贈ります。
【 若者 と ヒトデ 】
ある朝、
老人が海岸を歩いていました。
引き潮の浜辺は、
波にさらわれ打ち上げられた何千ものヒトデでいっぱいでした。
老人はそれらを踏まないように注意深く歩きましたが、
それらはまだ生きているように見えました。
「陽が上がれば死んでしまうが、海に戻せば生きられるだろう」
と考えましたが、
「全てを救うのは無理だ・・・」
と、何もせず歩き続けました。
ほどなく同じ海岸で一人の少年に出くわしました。
その少年はヒトデを一つまた一つと取り上げ、
一心不乱に海に投げ返しています。
「何をしているの?」
と老人は尋ねました。
「ヒトデを助けているんだよ」
と少年は答えました。
「なぜそんな無駄なことをするの?
こんなに多いんだから全部は無理だよ。
それなら意味がないよ」
と老人が言いました。
少年はためらうことなくまたヒトデを取り上げ、
「でも、このヒトデには意味があることだよ」
と言いながら、それを海に投げ入れました。
一人一人を見ていたら
人間的には不公平極まりないことですが
全体を見たら
ただそのようになっていたということに過ぎません。
でもそう感じられないのが人間というものなのです。
それはそういうご縁に過ぎないのです。
私の意見を率直に言いますね
なくほど悲しい。
わかります。
私もそうです。
お釈迦さんもそう感じて、出家したようです。
今の私の結論をお聞きいただけますか?
象に踏まれる蟻
踏まれない蟻。
そこには運としか言えないものがあると思います。
もちろんできるものは助けたい。それも人情です。
知らんふりができてしまうのもまた人間の一面でしょう。
そして、この世の現実は厳しく、まさに一切皆苦というべき事態が繰り返されてる。
これは真実の一面でしょう。
私は若い時に考え抜いて、こう結論しました。
あなたの気持ちはよくわかりますが、
ちょっと、感情を脇に置いといて、大変シビアに現実を見つめますと、
当たり前に与えられる幸せ、与えられるべき幸せ等々があると思うと、
私たちは、理不尽を嘆き、怒りに震えますが、
「当たり前」って実はなくて、いいことがあったなら、それは全て、
超ラッキーだったのだと思うようになりましたよ。
それを前提として忘れないようにしたいと思いながら、
でも、どうしても感じてしまう怒りや嘆きをバネに活動していますよ。
質問者からのお礼
皆さま、ありがとうございました。
何日も考えて正直自分の中で消化できないというか納得とはだいぶ遠いところにあります。
お三方にご回答に共通しているのは「その現実を現象として捉えてみては?」と
おっしゃっているようで、そこには被害にあっている者やまわりで悲しんでいる者に、まるで救いが無いじゃないかと腑に落ちませんでした。
ですが考える中で気付いたことがありました…「腑に落ちる回答ってなんだろう?」と。
もし仮に「来世で必ず幸せになれる」とか言ってもらえたら…
もしここで安心できる回答を得られたら、自分はここからどうするのだろう。
あ~よかったと安心し何もしないのではないか?
そう思ったら今回提議した問題は絶対に納得したらダメなことなんだと思いました。納得しないからこそ根絶する為に何か行動しなくてはダメなんだと思いました。
僕には子供はおりませんが大切な犬がいます。保健所から引き取った犬です。
裕福な暮らしではありませんが縁だと思い引き取りました。
一頭や二頭保護したところで世に中変わらないでしょうが、「保護犬を引き取るということ」に関しては熱意をもって人に伝えられる自身があります。
これからは出来る限りのことをしていきます。
ありがとうございました。