親からの影響を切り離したい
三度目を失礼します。今までの二つで、何とか見えて来た内容です。
私の父と母は人としては普通なのですが、人の親としては幼い性質です。
父も父で酷いものですが(30過ぎた娘に口論で負け、「お前には人を不快にする才能がある」「お前の話など聞きたくない」と面と向かって言うような人です)、
今回は、母に絞っての相談です。
過ぎた事を恨んでは仕方ないと言われますので割愛しますが。
母は私が四つほどの頃、前述のような父と子ども二人を育てるストレスで心を壊しました。些細な事で癇癪を起こし、相手が泣くまでしつこく罵り続けるのです。
最後の理性か、理由なくは叩かれたりしなかったものの、時計の読めない年頃に門限を破って外に締め出されるなど、中々愉快で理不尽な扱いを受けました。
物心付いた頃には、母を『気持ち悪い』『嫌いだ』と思いながら、離れると子どもとしての本能が見捨てられる不安でその後ろを追いかける…そんなちぐはぐな状態になっていたように思います。
また、この頃の殆どは母はもう忘れており、家庭の中での私の記憶は「想像力で作り出して話を盛った被害妄想」と言う事になっています。
追い詰められた母は、育児書や占いに依存するようになり、私の性格や子どもの語彙で説明できない癇癪を全て『そういう生まれだから』で納得させるようになりました。
(兎年は優柔不断って書いてあったけど、本当だわ。と言う風に)
幼い私はそれに従った行動を取らないと母を落胆させるのではと、概ねその通りに振る舞ってしまっていました。
そして、思春期からは反抗したり、ギリギリまで差し出したりしながら、絶対に譲れない『心』を死守して来ました。
その為に成長を拒んで、幼い心で、半分夢を見ているようにして20代までを過ごしました。
20代の終わりから、やっと母親と自分の境界線を思い出し、強く反抗を示したような感じです。
しかし、最近になってから、私が大事にしているそれには、幼い頃の親が作った、都合の良い紛い物が混ざっているようで怖いのです。
経済的な理由から親元を離れられないのも、一時家庭内別居まで行った母と何事もなかったかのように暮らしているのも、その『紛い物』に操られてるのではと。
また、それは自分の勇気と覚悟の無さだと私を責める私も居ます。人のせいにするなと。
私は今でも『私』なのか分からず、自分に自信が持てません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「養う」と「培う」
「養う」…他から色々と援助を受けながら育つ様子
「培う」…自身の経験を生かして育つ様子
あなたは、「譲れないもの」…「正しさ」のようなものを『心』と言ってるのかな?
あなたの「正しさ」の判断基準となるものを仮に『価値観』と呼ぶとします。
この価値観は、幼い時は「養われる」ものです。
幼い頃は、価値観の元になるものを持っていないのですから、当然ですよね?
ある程度成長して価値観の材料になるものが色々揃うと、取捨選択するようになる…「培う」の段階に入るんです。
元となる骨格に、必要なものは残し、不要なものは外す。
骨格というのは、変えることのできない宿命のことです。(両親のもとに女性として生まれて…みたいな)
そうして出来上がった『価値観』は、紛れもなく「あなたのオリジナル」です。
しかし、骨格も、必要・不要と取捨選択してきたものも、その1つ1つはどれもあなたのオリジナルではありません。
「養う」の過程でかき集めたものですから、当たり前です。
あなたはそれを『紛い物』と思われているのかもしれませんが、元々そういうものなんです。
でも、その1つ1つをまとめてできた集合体は、「あなた」以外の何物でもありません。
私たちは、食事の時「いただきます」と言います。
他の「いのち」をいただき、自分の血や肉に変えて、自分の「いのち」とする。
心だけでなく、体もそのようにしてできているんです。
1つ1つは自分オリジナルでなくても、集合体はオリジナル以外の何物でもない。
仏教的に言うと、「空」と「色」の関係ですかね…
こんな感じで、答えになったかな?
質問者からのお礼
頂いたお言葉が上手く飲み込めず、また、私の書き方が悪かったのかと何度か自省して遅くなりました。
ありがとうございます。
結論としては「そんな事は分かってる」です。
その上で、自分の心境を説明する例え話を一生懸命考えたので、多分伝わらないと思いますが書きます。
・幼い頃に生きた虫を「自分の為」と丸呑みさせられ、それらが今も胃で動いている幻覚に悩まされる時。
既に消化・吸収されたその虫を「私の一部になってくださったありがたいもの」「私の一部は生きた毒虫」と言われても飲み込めない。
・物心付いた頃に悪魔教的な新興宗教に入信させられていて、それに反抗し続けて出家した時に。
檀家さんへの説法の際に仏様の教えでなく、嫌悪していたその宗教の教義や価値観がまず頭に浮かんでしまうとして。
(仮に、「そんな人は殺してしまいなさい」と言いそうになったとします)
その刷り込まれた価値観を「拙僧の僧侶としてのありのままです」と胸を張って言ったり、仏様の教えに溶け込ませられるかどうか。
または、長年洗脳状態に居た人のアイデンティティは、その洗脳を受ける前にあるのか、受けた後にあるのか。
そのような質感の物が私の苦しみです。
クッキー生地にポツポツと溶け残ったバターのような感じです。