母が亡くなり辛いです。
昨年秋から闘病していた母が
1月に亡くなりました。
ご臨終に間に合い看護師さんから
「お疲れ様」と言われ、
これでやっと母は身体が楽になったという思いと、私も毎日面会に通い心身共に消耗していたので正直安堵の気持ちになりました。
その後葬儀の準備等いろいろ
忙しく悲しむ余裕もなく過ぎたのですが
亡くなって一ヶ月たち落ち着きを取り戻しつつある今、
急に寂しさと悲しさが押し寄せてきています。母がいなくなって話しが出来ない
ということがどうしようもなく辛いです。
生きる気力も湧かず
事故にでもあってあっという間にあの世に行けないかなぁとか毎日そんな事ばかり考えています。
よく、時間が経てば悲しみも癒やされると言われますが今の私にはそのような
言葉もしっくりきません。
なんとか頑張らなければと思いますが
一日一日を消化するのでいっぱいいっぱいです。
この先どのように生きて行けば
いいのでしょうか。
アドバイスいただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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卒哭忌とは、感情に溺れることから卒業すること
6年前の11月に私の父親は亡くなりました。その4か月後、母親が亡くなりました。実家を離れていたので、入院中なるべくお見舞いに行くように努めましたが、自分の寺の住職としての仕事がありましたので、あまり見舞いに行けませんでした。止むを得ないこととは言え、申し訳なく思っております。
葬式後、「亡くなった両親が喜んでくれるような生き方をしよう。」「亡くなった両親が安心してくれるような生き方をしよう。」という気持ちで、日々精進しなければ、という気持ちでおります。但し、その気持ちの通り100%実行できているかと言うと、残念な結果で終わっているというしかありません。というように、あまり偉そうなことを言える立場ではありませんが、敢えて私がアドバイスを申し上げるとしたら、「お母様の御恩と思い出を大事に、一生懸命生きていきましょう。」この言葉に尽きます。
人間ですから、いろいろと迷いが生じます。後悔したくなるのは、みんな同じです。愚痴を言いたくなることも有ります。泣きたくなることも有ります。しばらくは、そういう日々が続くのもやむを得ないでしょう。
もう四十九日は終わったと思います。四月になれば、百箇日を迎えますね。百箇日のことを正式には、卒哭忌(そっこうき)と言います。哭とは「泣く」と言う意味の言葉です。一般には「泣くことを卒業する日、泣くことをやめましょう。」と説明する場合が多いようですが、私はちょっと違う解釈をしております。
百日過ぎても、十年過ぎても、五十年過ぎても、亡き人を偲んで泣いて構いません。但し、泣きっぱなしジャまずいです。お母様も自分の死を悼んで泣いてくれることに感謝していると思います。でも、泣きっぱなしでは、今度はあなたのことを心配し、お母様が悲しんでしまうと思います。何年過ぎたって泣いていいんです。でも、後の時間は涙を堪えて日々の生活で自分のやるべきことを一生懸命に努める。その姿をお母様に見せていくことが、あなたの大事な仕事だと思います。泣く事も大事です。でも、感情に溺れすぎちゃだめですよ。
お母様は亡くなられて、仏様の世界に行かれました。。あなたが前を向き、今を一生懸命生きていれば、「善哉、善哉。」と褒めてくれます。あなたが頑張って生きる姿を見守っていてくれますよ。
預かっているのです
今晩は。夜分遅くに申し訳ございません。松阪市養泉寺 釜田隆介ともうします。
ご質問読ませて頂きました。文面からみかん様のお母様を思われるお気持ち大変伝わりました。
お母様が亡くなられた時、みかん様は「これで母もやっと身体が楽になった。」と思われたようですが、実はお釈迦様も死は決して恐怖なのではなく、それは生老病死という苦しみの基盤である身体、もしくは迷いの根源でもある身体から解き放たれることと受け止めておいでです。
お母様も今はきっと、御釈迦様の仰られるように生前中受けたあらゆる苦から脱して安らかに黄泉へと赴かれていらっしゃるのでしょう…。
お母様のご冥福を心よりお祈りいたします。私達人間は、大切な人を失ってしまった時に悲しみから中々立ち直れなかったり、生きている意味さえも見失なってしまうことがあります。又、みかん様の様に「事故にでもあって、あの世にいってしまいたい。」と死を考えられる方も中にはいらっしゃると思います。しかし、みかん様もそうですしそう言った考えを持たれた方は恐らく、「今自分の持っているこの命は自分だけのものだ。」という思い込み、錯覚によって死にたい気持ちが煙の如くモクモクと身体から湧き出て来ているのです。
この自分のものと思っている命は仏教では仏さんからの預かり物と言われています。今ある、みかん様の命、一人の人間として存在出来ていること、それは紛れもなくみかん様のご両親、更には無数のご先祖様方がみかん様に至るまで命の受け渡しを途切れさせることなく繋いでくださったからこそ今があるのです。ご先祖様から受け取ったこの命は、いつか又仏さんにお返しする時がやってくるのです。その時まで「命ある限り、しっかり生きて行く。」それが遺されたみかん様の使命でもあるのです。人生は晴れよりも曇りや雨が多いです。楽しく幸せな時よりも苦しい、辛い、悲しい時が多いです。みかん様は今とても苦しいです、辛いです。それならその苦しみを懸命に味わってください。その辛さに出来るだけ寄り添ってみてください。そうすることで新たな気づきを発見できるはずです。今生かされておる命への感謝であったり、家族、知人友人への思いやりだったり、色々な気づきを少しずつ見つけては拾い上げ、みかん様がゆっくりでも前進されることをお祈り致します。命をお返しする日まで日々を大切にお過ごしください。釜田隆介 合掌
みな自らをかけて
こんにちは。お話拝読しました。心中をお書きいただけた事、誠に容易ならぬ事と思い有難く、心中お察しします。
我が母も最近老いが目立ち、「いづれは、そういう日が来るのだな」という事を、ぼんやりと感じております。寂しいです。
先般のご質問も読ませていただきました。その中のお返事にも書かれておりましたが、まさに私たちは命がけで、周りの人たちに教えているのです、「命とは、こういうものだ」と。今あなたの感じている事もまた、命の姿の一つ。「母を失うとは、こういう事なのだ」を、お母様から教わりつつ、誰かに伝えているのです、少なくとも私に。
願わくば、自らも同じ世に命を持つ者として、その大切さをしっかりと抱きしめて生きて頂きたいと思います。
お名前も存じませんが、明日の朝のお勤めで、お祈りさせていただきます。
質問者からのお礼
佐藤良文様
御回答いただきありがとうございます。
母は最期まで必死に頑張って病と闘い
満身創痍で私に生きること、死ぬことを
伝えてくれたんですね。
母には「よく頑張ったね、ありがとう」と伝えたいです。
そして母が教えてくれた命の大切さを
しっかりと胸に抱き生きていきたいです。