どうして仏の存在を信じられるのですか
どうして皆様は仏の存在を信じられるのですか?
年に数回決まったお寺で参拝しているし
もちろん有難いとは思っていますが
どこか伝説の話というか、心の底から信じられていない自分もいます。
仏陀なんていない。極楽浄土なんてあるはずない。死んだら灰になっておしまい。お墓で亡くなったおばあちゃんに思いを伝えても、死んだのだから意味はない。という思いが何処かにあります。
どうしてお坊さんは仏の存在を心から信じられるのですか?
私もできることなら心の底から信じてもっとありがたさを感じたいです。
すぐイライラしてしまう時がある
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「仏様」とは何か?
ご相談拝読しました。とても大事な疑問です。
仏教は一人の実在した人物であるゴータマ・シッダッタが真理に目覚め仏陀(目覚めた者の意)となり、さらには自分だけが真理にとどまるのでなく、教えを説き如来(真理を事実として伝えるために来た者の意)となったことで始まります。
つまり仏様であるゴータマは歴史上実在の人物として考古学的に証明されているのです。でもそれがあなたにとっても実在として感じられるかどうかはまた別問題。
言うなれば「仏様って何?」という問題です。
たとえば織田信長の実在をあなたは信じられますか?会ったこともないし…という感じではないでしょうか。
でも織田信長関連の史跡や偉業のエピソードなどを知ることで、なんとなくそこに織田信長の存在をイメージできるのではないかと思います。仏様についてもまずはその存在を知ることが大事です。
でも、仏様が仏様であるためにはただの人物像だけではダメなのです。仏様は一人の人が真理に目覚めて仏様になったのです。真理が大事です。
その真理とは人間が考え出した思想・概念ではなく、仏様がそれに目覚める前から存在した法則です。重力はニュートンが発見しなくても存在したように、仏様が目覚めた法則はその発見以前から存在し、それはいつでも・どこでも・誰にでも当てはまる法則だからこそ真理なのです。
その真理は仏様をして仏様たらしめる根拠であり、目に見えない仏の身体である「法性法身」として理解されるようになりました。
真の仏様は目にみえるものではないのですね。でも確かにそこに法則としてはたらいている。
しかしそれでは私たちの側からあまりにも手がかりがなく、仏様に成ることを目指す人たちがどこを向いて何に手を合わせていいのかもわかりません。
それであえて私たちにわかるように仏様の方から姿形をあらわしてくださったものがお寺などで仏像としてみられる姿です。これを「方便法身」といいます。
「ウソも方便」という言葉がありますがあれはウソで、「方便」の意味は「手段・手立て」です。
死後の極楽浄土も「方便」です。仏様が私たちを真理に目覚めさせようと言葉としてといた教えはみな「方便」なのです。
だから死後の極楽浄土については物語として受け取りながらも、それに自らの身を委ねられる真理のはたらきとして受け止められます。そこで矛盾を超えていけるのですね。
オキシトシン?
普通、人は亡くなることに恐怖を覚えます。
そんな臨終間際の朦朧とした意識の時に「浄土」が見えたら
人は安心して死ぬということを受け入れられるんじゃないでしょうか。
要は恐怖を抱いて生きて死ぬより、安心して生きて死ぬのが大事。
見えると言い切る人も知り合いにいますが、
私は見えていませんよ。その上で、、、
お答えは、仏を思うとオキシトシンが出るということです。
何言ってるかわかりませんよね。
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私の感じる仏は、目に見えるものを通して感じている日常と、その「背後」の「感触?」です。
私は「宇宙」は常に「自分の現実」として目の前に現れてるんだと思います。
でも見えてる部分だけじゃないはずですよね。
目の前に現してくれてる仕組みというか、むずく言えば摂理?
それを仏とも言います。
でも見えないものはよくわからないから、パラボラアンテナを空に向けるように、
仏界に念をこらして、宇宙人からの通信が来ていないか気持ちを向けています。
その時に、今まであったいいことや、今まであった嫌なこと、でもそれを乗り越えさせてもらえてきたことなど、いろんな経験や思いがごっちゃになって、
なんだかトータルでは安心感になってるのかな?
オキシトシンは不安感や、痛みを和らげ、絆を深めるホルモンらしいですよ。
説明すると、こんなに長く、よくわからんことになっちゃうことを、古代の人は一言で「仏」と表現したのだと私は思っています。
こんな説明で私の「背後の感触?」が伝わるといいのですが。
人生経験の中で実感していくのです。
ちかさん、こんにちは。
なぜ、仏さまの存在を信じられるかですね。
神様・仏さまなんて、科学的に分析すれば、証明なんてできません。
でも信じることで幸せになるのであれば、信じた方がいいという社会学的な行動のようにも感じます。仏さまを信じる信じない別として、人間として正しく生きることが目的です。
過去に私よりも賢い多くの知識人が、信仰をした方が良いという結果を出しているから、深く考えない人は信仰をした方が幸せになる確率は高いのです(笑)
私は理系主義なので、幽霊がいるなどの不思議な世界は理性では信じることはないのですが、それでも理性では理解できない不思議な体験はたくさんしています。幽霊もたくさん見ています。多くの治者の体験談を読むと、自分も思い当たる節がたくさん出てきて、仏さまっているんだなーっと実感して来ると思います。仏さまはどんな存在かを学ぶと、仏さまの実体は人間の形だけではないのです。そこを学ぶと仏さまの実感がわかってくると思います。
仏さまを見るには、たくさんの人生体験をすることです。一緒に頑張りましょう。合掌
善きひとの善巧方便で道を歩む
師を持ち友を持って仏教を学ぶ事が出来ると思います。
苦悩を抱えて、何故生きなければならないのかという問いを持つと人は彷徨います。
その彷徨い歩いている私に声をかけてくれる人がいるのです。
一緒に学ぼうと声がかかる。
此処が学びの出発点だと振り返って感じます。
質問者からのお礼
沢山の回答を有難うございました。
様々な考え方があることを知り、とてもためになりました。
確かに、仏様を信じていると安心します。そして安心して自分と向き合える気がします。
仏様について、仏教についてもっと知識を深めていきたくなりました。そして、お寺に行きたくなりました。
信じた方が幸せになれるという考え方、とても合理的で納得しました。
様々な体験談も読んでみたいと思います。
たしかに仏様は存在していて、でも目には見えない。それでも法則としてはたらいているという考え方はとてもわかりやすかったです。
とはいえまだまだ勉強不足なのでもっと知識を深めようと思います。
有難うございました。