浄土真宗のお坊さんに質問です。
あるホームページで「難しい教学の知識は、獲信した後でよい」という法話を聴聞しました。
気になったのが「獲信した後でよい」というところです。これでは他力ではなく自力なのではないかと。「信心は賜りたるもの」という考えに立った時、獲信できたと自覚できるものなのでしょうか。お聞かせください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「難しい教学の知識」は必須ではない
こんにちは、初めまして。
「あるホームページで」という出所が不明なので、はっきりしたことは言えないことをご了承ください。浄土真宗本願寺派の僧侶の立場として書きます。
まず、「難しい教学の知識」はどの程度を想定しておられるかも不明ですが、往生浄土ということに関しては必須のものではありません。本願を聞き信じてお念仏する、基本的にはそれだけです。
自力とは、己を頼りにし己の力で歩む成仏道のことを言うのであって、「難しい教学の知識」云々を論ずることは自力とは直接関係がありません。
また、「獲信できたと自覚できる」ことについて。獲信の瞬間は意識できません。 ああ辛と 言うは後なり 唐辛子
という有名な歌にあるとおり、食べた瞬間は辛いと感じない。あとからだんだんと意識されてくるという意味です。
簡単ですが、ご参考まで
親鸞はどうだったのか
質問者からのお礼
お忙しい中、回答いただきありがとうございました。
釋 悠水様
確かに知識量が増えたからといって、信心深くなるかというとそうではありませんよね。
肩の力を抜いて、「念仏のみぞまこと」の気持ちで聴聞していきたいと思います。
また「ああ辛と 言うは後なり 唐辛子」は、ストンと落ち、大変イメージしやすくなりました。
今後も念仏しながら御恩報謝の日々を過ごしたいと思います。
桃川英明様
「雑行を棄てて本願に帰す」すごいと思うとともに、ありがたい言葉だと思います。自分自身を振り返ってみると、時々自力の心が頭をもたげます。頭でっかちになることなく、聴聞していきます。
また、ちょうど、というか、今頃かもしれませんが、五木寛之さんの「親鸞(下)」の、吉水に行くところを読んでいました。これもまたご縁かと思います。