愛犬の埋葬について
悩みというか、心に引っ掛かることがあるので質問させていただきました。
先日、14年近く家族として一緒に過ごしてきた愛犬(マロン)が亡くなりました。
マロンは体が弱っちい子でしたが、平均寿命に近い年月を生きてくれました。私たち家族もとても大事にしてきました。
亡くなったと知ったときは勿論ショックでしたが、「大事にされて、最期も病院とかではなく自宅で、家族がいる時だったからマロンは幸せだったんだ」と言い聞かせてました。ですが、埋葬の時点で親が「市営の斎場に運ぶ。共同埋葬で遺骨は戻らない」と言ったので私は一度反対しました。
でもその時は、悲しみとショックで呆然としていたので流されるままに、皆で斎場に運ぶことになりました。
受付の条件で「ダンボールに遺体のみ入れてタオルやおやつなどは入れないでください」とのこと。。。亡くなる覚悟はしていたものの、老犬の介護の仕方や流動食の作り方等は調べていましたが、葬儀について調べたり準備もしていませんからちょうど良い箱が無く、ヨレヨレのみかん箱にキチキチに入れなければなりませんでした。
その光景がとても悲しかったです。
後で民間の葬儀会社等調べたら、桐の棺にフワフワのお布団やお花、お線香もついていて、市営のものとは差がありすぎて。。。
一番ショックだったのが、市の職員さんに「ここまでです。お預かりします」と言われ、遺体を手渡したのですが、その人はお盆でも運ぶように、まるで小包でも運ぶように、片手に箱を乗せて行ってしまいました。
遺族が、本当にマロンとお別れする場面でそんな扱いを見せられて、怒りを感じました。民間の葬儀会社程の手厚い対応は望めないにしても、手渡された遺体に何の情が無くとも、もっと丁寧に対応すべきでは・・・
ちゃんと火葬してもらえたかも見届けられませんでした。勿論遺骨(遺灰?)もありません。
亡くなったその日の午後に運んだので、火葬は翌日になったそうです。
冷蔵室で独り寂しい思いをさせてしまいました。
せめて一晩、自宅で過ごさせてあげればよかった事と、豪華でなくともきちんと埋葬してくれるところにお願いすべきだった事を後悔しています。
これは人間のエゴというか、勝手な「可哀想」と思ってしまう感情なのでしょうか?
マロンは自分を大事にしてくれたと感じていると信じていますが、最期の最後で可哀想な事をした・・・と後悔しています
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
今を祈る
おつらい思い、眠れぬ日をお過ごしいただいた事と深くお見舞いを
申し上げます。
ご供養における後悔は、これよりは「祈り」になされてください。
それは、ひとつのいのちにむけた「さちあれ さちあれ」の祈りです。
マロンさまのこれよりの、ほとけとしての歩みに向けて、
「さちあれ、さちあれ、ひかりあれ、ひかりあれ」と、ただ、
祈ることです。
それでも、マロン様の最後に、悔やまれる事は必ず来ます。
その時は、マロン様のみならず、御家族、御親族、
または、縁あってあなたさまのもとにきたいのちたちに、
ぬくもりをお与えください。
いのちのつながり、ぬくもりのなかに、マロン様はおります。
そのぬくもりを、大事にすることが、そのまま供養になるものです。
あなたさまと、御家族さま、そしてマロンさまに、さち多からんことを。
合掌。
亡くなられた愛犬マロンからのお手紙
フミマル様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
実は本日に愛犬マロン様からのお手紙を預からせて頂きました。僭越ながらにもこちらに記して代読させて頂きます。
・・
親愛なるあなたへ
お元気ですか。
実は・・あまり詳しいことは言えないのですけども・・次の私の行き先がもうすぐに決まるみたいです。
行き先が決まる前に前世の記憶は完全に無くなるようです。
なので、まだ覚えている今のうちにと思って、お手紙を書きました。
私のことを今でも忘れずに気にかけてくれていて、ありがとう。
火葬のことは、全く気にすることありません。なぜなら、その時、私の心は身体を離れてもうお空にありましたから。
私はあなたやあなたの家族と過ごせた日々、本当に、本当に、幸せいっぱいでした。
みんなに大事に親切に可愛がられて、優しさや思いやりの大切さを学ぶことができました。
そのお陰もあってなのか、私は再びあなたのいる世界へと戻ることができるみたいです。
もちろん、もうマロンの時の記憶は無いので、偶然にどこかですれ違っても、お互い分かることはないかもしれないけれど、今お世話になっている偉い尊いお方が、確か「くんじゅう」って言ってたかな・・記憶や感情の残り香のようなものが、心のどこかにまだ残っていて、過去世で互いに縁や繋がりの深くあった者同士が、どこかで偶然にでも出遭ったら、ふっと懐かしい気持ちに包まれて、なんだかわからないけど、それとなくわかるみたいなこともあるようなことを少しおっしゃっていたので・・
だからお願い、もう悲しまないで。私はもうすぐあなたのいる世界に戻ることになるのですから。記憶は無くなっていても、きっとまたあなたと会えるような気がしています。
本当にありがとう。優しいあなたが大好きです。また会いましょうね。
マロンより
・・
文中の「偉い尊いお方」とは、如来様か菩薩様か、拙生の勘では観音様かなと存じます。「くんじゅう」とは多分、「薫習」で、確かに心に染み付いた残り香のようなもののこと(習気)であり、おそらく「中有」という状態に現在あって、過去世、前世での善き縁によって、またこの世界に生を受けられることになったようでございます。もしかしますと、人間としてかもしれませんね。再会を祈念申し上げます。
川口英俊 合掌 平成26年4月1日
生と死に関わらず
実はわが家で飼っていた犬が昨日亡くなり父と母とでお墓を作りました。
昨日回答しようかと思いましたが心の整理がつかず、控えました。
昨日は心の動きを良く観察していました。
亡くなったことを知って「えっ!」亡骸をみると一輪車の上に乗せられて毛布がかぶせられていてまだ温かさがあり、首輪が外されていました。
「ようやく首輪を外してもらえたんだなぁ、よかったな」と思いました。
この犬は私が修行道場に行っている間に飼われた犬なので、後から帰ってきた私はずっとよそ者でした。毎朝吠えられます。仲良くできないまま逝かれてしまいましたので、より一層心が重くなりました。唯はっきりしていることは、生きている間にも彼に思いを寄せることがあり、亡くなった今も思いを馳せていることがある。
その思いの表れは、こちら側、内側のもので、外の彼の生きていた時と、亡くなった後と変わりません。亡くなる前からも、亡くなった後の今も彼に対する思いの表れは同じなのです。
これは生きている人間に対しても同じです。
そしてこれは万人の真実。
だからこそ、亡き命への在り方は、あたかもそこにおわすが如くに接することです。
それが供養ある生き方、報恩ある生き方。
存在は確かに変わりました。
でも思いはせる、その思いはこれからもずっと続いていきます。
ならばこそ、あなたが一番晴れやかになるためには報恩として、追善の気持ちを形にすることであると思います。
かつてそこにいたときにおこなってきた事と、
いまもそこにいるかのつもりでおこなうこと。
この二つの心は同じです。
生と死を超えてその思いを大事に自分を生きるのです。
終わり、終焉を持たずに、共に生き続けてあげてください。あなたの中にちゃんとその感覚があるはずです。
質問者からのお礼
温かいご回答下さりありがとうございました。
部屋にあるマロンの写真の前に、お水と、毎日食べていたおやつを御供えしています。
朝晩と、何かあれば心の中で語りかけています。
まだまだ、思い出しては涙する日々ですが、マロンがあちらの世界でお友達と駆け回っている事を祈っています。もしくは新しく生まれ変わって、再会できたら良いなとも…
改めて、マロンの存在に感謝しています