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命って誰の物なのですか?

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看護師をしているのですが、お看取りするたびに心がザワザワします。見込みもなく、苦しいだけの無駄な延命治療。正直、もう死なせてあげてよと思う事も多いです。死人に鞭を打つようで、やってる側は心身共に疲労困憊です。

医療現場の経験を踏まえて、命って自分だけの物でもはいんじゃないのかなと感じるようになりました。お坊さんとしてのご意見聞かせて下さい。命って誰のものですか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

先祖から受け継ぎ、子孫に伝える

 仏教の中の学説に、四大(しだい)というものがあります。この世界や人間が4種類の元素「地・水・火・風」から構成されているという考え方です。地水火風が今ここに仮に和合して私と言う人間が存在している。それを四大仮和合(しだいけわごう)と言ってます。そして、病気になって四大不調となり、御臨終となって「四大、空に帰す」「四大、分離して去る」と言ってます。

 四大を仮に和合させるものが、命である。と私は理解しております。そして、それは地球に住む生命体なら地球の歴史と共に育まれてきたものだと思います。40億年の地球の歴史の中で、無機物から有機物が合成され、有機物から生命体が誕生し、微生物、昆虫、爬虫類、哺乳類と誕生して来ています。
  つまり、ひろーい意味での御先祖さまから命は受け継がれ、今私はここに存在する。その命を子孫に伝え子孫を育む。そして、自分の中の四大を和合させることが出来なくなった時四大不調となり、息を引き取り命は四大を離れていくのです。命は私のものであるけれど、私だけのものでは無い。命をリレー競争のバトンに例えれば、受け継いだバトンをしっかり握って、自分の与えられた人生をしっかり走り、次の走者にしっかりと渡していく。それが人生です。

 終末医療に携わるお仕事で、心身ともに疲労されておられることと存じます。ホスピスや緩和ケア病棟を設置する病院が増え、患者や家族の希望を尊重し、延命措置は避けるようになってきたようですね。しかし、家族としては「少しでも長く生きてもらいたい。」という希望を病院側に伝え、病院側もその希望に沿えるよう医療行為をする。それ故、つらい現場を経験されておられることと思います。それぞれの患者にはそれぞれの家族が居られます。延命治療を必要とし、延命治療をして良かったという場合もあるかもしれません。治療行為をしないで、ホスピスで痛み止めをもらって静かに旅立ちたいと願う方も居ると思います。
  患者も家族もしっかりとした死生観をもつことが望ましいですけど、これもなかなか難しいですね。医療関係者が死生学の講座を受講されることが多いと伺っております。私も臨床宗教師研修を受講しましたが、まだまだ駆け出しです。お互いに研鑚し、人生のエンデイングが本人にとっても周囲にとっても安らかなものになるよう努めて行きましょう。

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 目の前の方の悩みや気持ちをしっかりと受け留め、心を開いてもらうように努め...
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限りない命の繋がりの中に生かされている命

はじめまして。亀山純史と申します。
私たちの命は、限りない命の中に生かされている命です。私たちは、突然、何もないところから生まれたわけではありません。私の命には、私の父母の命があり、また私の父母の命には、私の祖父母の命があります。更に祖父母の命には、というように、私の命は、限りない命の繋がりの上に生かされている命なのです。ですから、今ある私の命は、私の命でありながら、決して粗末に扱ってはいけないのです。
以上が私からの回答です。これからも人の命に携わる仕事にお誇りを持ってもらえればと思います。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧...
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質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
亀山純史さま
命は個人のものであって、個人のものではないのですね。命の中に命があるという考えは、今まで考えもきませんでした。患者さんのの背景まで含めた関わりを持って行こうと思います。

吉田俊英さま
自分が生きているのは地球の歴史。と考えるともの凄く重い物のような気がしてきました。悪い意味ではないです。どんな人でも結局最後はふっと居なくなってしまうような、あっけないように感じていたからです。
患者本人はもとより家族も死について考えていないというか、縁起でもないと遠ざけたり、考えたくない人が多いように思います。産まれたからには必ず死ぬのですから、もっと若い時から、生死感を持って欲しいと思います。生きかたも変わる気がします。良いエンディングを迎える手助けができるよう、頑張ります。

「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

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「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

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病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

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死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ