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少しずつ老いていく親に焦りを感じます。

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父64歳、母68歳です。

最近は、2人とも足腰が悪くなったり、体力が目に見えて衰えたり…。
親はいつまでも若くないのですよね。

ですが、親の老いを実感するたび、言い知れぬ不安感が襲われます。
こんな気持ちをどう持っていけば、良いでしょう?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「ばあやのお話」

あやさま。
なごみ庵の浦上哲也です。

私の父はもう10年以上前に亡くなり、母は健在ですがずいぶんとおばあちゃんになってきました。年齢なりに元気ですが、加齢による変化も色々出てきています。もう自分が子どもの頃の、元気ハツラツな母の姿を見られないのだな、と思うととても寂しいです。

兄が2人おり、時々話しますが、受け止め方も三者三様です。
でも私は僧侶になって、高齢の方との付き合いが多かったこともあり、またカウンセリングを学んだこともあり、兄たちとは違ったスタンスで母と接せれている気がします。

「物忘れや失敗を責めずに受け止めること」
「同じ話をしても、耳を傾けること」
私が母と接する時に気をつけているのは、主に上の2点です。
これだけでも、母は私と接する時に安心しているように感じます。

思えば自分が幼い時、忘れたり失敗しても母は(一度は怒っても)許してくれました。
小さい自分が何度も同じことを聞いても、何度も答えてくれました。
返しきれませんが、少しでもご恩返しをしたいと思っています。

ひとつ、金子みすゞさんの詩を紹介します。

「ばあやのお話」

ばあやはあれきり話さない、
あのお話は、好きだのに。

「もうきいたよ」といったとき、
ずいぶんさびしい顔してた。

ばあやの瞳には、草山の、
野茨のはなが映ってた。

あのおはなしがなつかしい、
もしも話してくれるなら、
五度も、十度も、おとなくし、
だまって聞いていようもの。

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有り難し
おきもち

横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗の教えが好きで、それを人に伝えたいと思い、自宅で法話会を始めてご縁の輪が広がりました。
相談の日程や時間はご相談ください。

今度はあなたの番です

こんにちは、一妙寺の赤澤と申します。

現在はあやさんのように、不安感を抱える方が多くいらっしゃる時代だと思います。

私の母は、私が生まれたころから私のことを大切に、朝早くから夜遅くまで私を育てる為に身を粉にして働き、私のことを損得関係なく愛してくれました。あやさんも同じではありませんか。

だからこそ私も、母親のことを絶対的に思っている部分がありました。
親はずっと元気で、自分の面倒を見てくれて、大切にしてくれる強い存在。自分には弱い部分を見せたりしない・・・。

しかし、親も人間です。 私たちと同じ、人間。私たちはいつか親の弱さや老いを知る時期がくる。

その時はあやさんがきちんと受け止めて、今までの恩返しをしなければなりません。 今度はあなたの番です。

だからといって、一人で抱え込んだり悩むことはありません。御兄弟に相談したり、みんなで協力し合って孝行したいものですね。

現実から目をそむけるのは簡単ですが、それは良い人生とはいえません。
あなたの行動一つで、きっといろんなことが動き始めるでしょう。

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有り難し
おきもち

サラリーマン家庭で育った私が作った小さなお寺。目指すは「アットホームテンプル」です。 無印良品のような本堂には季節のお花を挿し色に。礼拝と法話を大切にしております。

老いに対するネガティブイメージを捨てましょう

上手に年をとっている方は老いが老いながらも❝負い❞ではありません。
円熟と捉えるべきではないでしょうか。
老という言葉も尊称的な意味でつかわれます。
老師、老古仏、家老、老舗、大老…、別にジさま、バさまという意味ではありません。
老いを乗り越えるコツは体の衰えがあっても心が老いない事。
体が病気でも心が病気でない人は❝健全❞です。
体が病気で心も病めば不健全です。
体が元気でも、心が病んだり、老いれば、それこそ不健全。
人は生まれてきた以上死亡率100%です。
あなたのご両親も、あなたも上手に老いを楽しむことです。
生老病死に沈められて苦しむのではなく、生老病死のプールで浮かんで、楽しんで泳いだり、船に乗って楽しみながら漕いで行く。
それが仏教的生き方です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

歳を取るということ

歳を取らずにすむ方法はひとつだけ。すなわち死ぬしかありません。

死なずにすむ方法はひとつだけ。生まれてこないことしかありません。

しかし、生まれてしまった以上、必ず死なねばなりません。それがいつかは誰にもわかりません。ただ、ハッキリしているのは、今、生きているということです。というよりも、生かされてある今があるだけです。

ですから、生かされてある証として歳を取る、つまり生かされてあって初めて歳を取らせていただけています。にも関わらず、歳を取るのもイヤ、死ぬのもイヤだと言ってもどうにもならないことではないでしょうか?

歳を取っていくご両親のお姿に不安をお感じになる心情はわかります。しかし、歳を取っていくご両親とのご縁がそこに開かれてあります。そして、そのご縁が続けば、いつか介護が必要になるかもしれません。そのときには、そこに自分を育てていただいたご恩をお返しするご縁がまたそこに生まれます。

あなたとご両親には、生かされてあり、歳を取らせていただいている今があります。その今のご縁を大事に紡いでいただきたいと思います。

合掌

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有り難し
おきもち

真宗大谷派寺院で住職をしております。真宗目線でお話できることがあれば幸いです。また、ボク自身も勉強させていただければと思っております。よろしくお願いします。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
これからは、両親と新しい関係を築いていきたいと思います。

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