何を美しいと感じるのでしょうか?
悟りをひらいたブッダのような心は、何を美しいと感じるのでしょうか?美しいと感じるのでしょうか?
朝日や夕焼けなどの自然を美しいと感じるのは何故なのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
アーナンダよ、世界は美しい。
「アーナンダよ、世界は美しく光り輝いている。」
お釈迦様の言葉を聞いたアーナンダ。とてもそうは思えないのでした。
(´・ω・`)「(美しい?…、闘いや憎しみ、醜聞に満ちたこの世界がどうして美しいものだろうか)」
アーナンダの悪い癖は、お釈迦様の言葉をその通りにうけがえないことでした。
何故なら、アーナンダには物事を曲解してインプットする脳内アプリ「マッハジュン」(私見・妄見)が起動していたからなのです!
「アーナンダよ世界は美しい。」
(;´・ω・`)「このごろお釈迦様独り言を言うようになった…。世界が美しい?私は悟りが開けなくて凹んでますよ。ブツブツ…」
「アーナンダよ、世界は美しい…。」
(;´・ω・`)「また…。世界が美しければ苦労しないッス」
アーナンダには、まだ「自分」がありました。
せっかくのお釈迦様の言葉をという脳内フィルター越しに聞いているため、反発や私見、曲解ばかり。それが為にアーナンダは悟りを得られないのでした。
それは自分の解釈をごちゃ混ぜにした、ものの受け止めだったのです。
まっさらなミルクにスパイスを沢山いれると「チャイ」になっチャイいます。
アーナンダの頭の中は常に自分の思いのスパイスだらけで、お釈迦様の教えをそのまま聞くことが出来ずにいたのでした。
お釈迦様の死後、アーナンダはカッサパ尊者に聞きました。
「このチャイ、ウマいっすね。ところでお釈迦様は、法衣と鉢の他に、何を授けられましたか?」
その言葉が終わらぬうちに…!
「アナン‼」
「(;゚Д゚)ハイっ!」
アーナンダの悪い癖を知っていたカッサパ尊者は、超マッハのホトケツッコミ。余分な思いを起こさせるスキを与えないのでした。
「あ、えーと…」
「アーナンダ!!」
「ハイ」
「あそこの旗を降ろしてきチャイ!」
「はい。え?あ?」 キラーン ゴゴゴ
その時のアーナンダの頭はスーパーサイヤ人のように金髪になり、背中から美しい金色のオーラがシュワシュワと出ていました。
「アー、ナンダ!なるほど。」ついに自分を差し挟む前の美しい世界に気づき悟りを得ました。めでたしめでたし。
「OH世界、マジ超ビューリフォー。」
そんな悟りを開けるかもな「チャイ」が今もインドでは大人気。「ボクもくだチャイ」
参考資料 丹下覚元著『せっかくのイイ話を台無しにする仏教説話「ソリャー・ドーナンダ」より。
我がこの世界は安穏
あやめさんこんばんは
お釈迦様はお経の中で『我がこの土は安穏にして天(神)人常に充満せり。園林諸々のどうかく、種々の宝をもって荘厳し、宝珠華果多くして衆生の遊楽するところなり』とあります。
お釈迦様は私達の生きる世界はそれが綺麗も汚いもない、ただそこに存在するだけでありがたいという気持ちだったのではないでしょうか?
私達は主観で綺麗、汚い、美醜を判断しますが、人によって見方が違うため、ある人にはたまらない景色でもある人には見るに耐えない景色だったりします。
私達は常に自然の中におります。その当たり前という気持ちが朝焼けや夕焼けを見た時にふと無くなり、感動するその一瞬がお釈迦様のありがたいという気持ちと似たような感情になり、心が動かされるのではないでしょうか?
「美しい」は「もっと見たい」
「美しい」とは、もっと見たい、ずっと見ていたいと思わせるものでしょう。
それは、珍しいものや、セクシーなもの、など。
きれいな夕日は限られた時間しか見られない、珍しいものなのです。
24時間夕焼けだったら、たぶん、たいして美しく思えないのでは。
質問者からのお礼
なるほどと思いながら読ませていただきました、ありがとうございます!
例えば、シワだらけのおばあちゃんの顔やシミ汚ればかりのガラクタが、かけがえのないものという考えに変わる瞬間があったり、
「もっと見たい」というような具体的な欲求が出てくるギリギリ手前の瞬間、たぶん、きれいだなとしか思っていない瞬間あるような気がするのです。
きれいだなと思っているだけのようで、それ以上はよくわかりません。なるほど当たり前なものにはきれいだなとはなかなか感じていないようでもあります。
美しいと思う心って、生きるための生理的欲求とか喜怒哀楽から外れているような気がするのですが、なぜ美しいと思う心機能があるんだかなあ、と不思議に思っていました。
ありがとうございました。