自分の性格について
最近では不祥事が起こればネットの匿名性とそれをネタに批判の域を越えた誹謗中傷が出てきたり、Aは好きなグループBのライバル的存在だからAを叩こうとする人が居たりと人が嫌になりそうです。
しかし僕自身も声に出したりネット上に発信こそしたりはしていませんが、嫌いなタイプの人にあったりすると暴言を心の中で吐こうとしている、結局は嫌悪感を持ってしまっている僕自身も嫌になりそうです。
他にも僕は打算的に動こうとしている節があり、「ありがとう」と言われたいから他の人が嫌がることをやる、愛想を振り撒く、そんな事が続いてます。心の底から純粋に誰かの役に立ちたいと思えないのが辛いです。
数年前、学園祭でやる演劇の内容を決めるための話し合いで学級委員だったとある女子がまとめ役として話を進めてくれました。話し合いは多くの人がが勝手に関係のない話をしたりして進みませんでした。時間により話し合いが終わり各々が帰った後僕は先程いった打算的な性格ゆえ掃除をしていましたが、ふと気づくとまとめ役だった学級委員の子が泣いていました。それも皆が話し合いに参加しないことについて憂いて泣いてたのではなく、自分が力不足だったからまとめられなかったと自責の念で泣いていました。しかも誰にも気を使わせないようにと、ほとんどのクラスメイトが居なくなるまでは我慢して。
僕はそんな彼女の考え方が羨ましいです。どうすれば彼女のような心の持ち方が出来るのか、本当にただただ尊敬しかありません。僕はこの性格とどう向き合えばいいんでしょうか。
打算的にしか生きられない。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人の生き方からたくさん学び、さらなる成長を
ぺしぺしさん、おはようございます。打算的に動いている自分に疑問を持っているのですね。同時に、学級委員である友人に尊敬の思いが生まれたんですね。いや~、青春してますね。
仏教の大切な実践の一つとして「布施」があります。それは、お坊さんにお渡しするお金のことではなく、本来は、相手のことを思いやりながら実践する施しの行いのことです。字数の関係で全て丁寧にご紹介はできませんが、「布施」の実践にあたって大切なポイントが3つあります。三輪清浄と言い、施した自分の行為や施した相手、施した物にいつまでも執着してはならないというものです。例えば、「太郎さんにジュースをおごってあげたけど、太郎さんは僕に何もおごってくれない」と腹を立ててはならない、ということです。なぜこのようなことがいわれているかというと、心からの布施を実践することが難しいという人間の姿を見抜いているからです。つまり、ぺしぺしさんだけではなく、人間誰しも大なり小なり打算的な面を抱えているということです。その事実を前提とした上で、素晴らしい友人に出会えたことは、ぺしぺしさんにとってとても大きな出来事でしたね。
自分には到底できないと思うことでも、それを実践している人に出会うと心が動きますね。尊敬の気持ちも生まれますね。それはぺしぺしさんが、現実をしっかり生きているという証です。人との出会いやその関わりのなかで感じた自分の気持ちが、新たなぺしぺしさんを創っていくのです。打算的な自分に気がついたこと、打算を超えて動いている友人に出会えたこと、その友人に尊敬の思いが生まれたこと。それらは、とても素晴らしい変化です。これからの人生、いろいろな方に出会ってください。そして、「この人のこの部分は素晴らしいなあ」と人の魅力を見いだし、取り入れることの出来る大人になってください。自ずと、他人のために身体が動いていたということが出てくると思いますよ。人生って、それだけ不思議なものですよ。「自分は打算的だ」と決めつけず、これからもどんどん成長してください。ぺしぺしさんの変化や成長を楽しみにしています。