回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
善と悪は表裏一体
火は善なのか悪なのか。
火は寒さをしのぎ、食べ物を調理する善なるものである一方、火災などは財産や生命を奪う悪だ。
水は善なのか悪なのか?
飲まないと死んでしまう善なるのもである一方、顔まで中に浸かっていれば溺れ死んでしまう悪なるものだ。
すべての事象は見る方向により善にもなり悪にもなる。
何事につけ「これは善」「これは悪」と考えること自体に無理がある。
そうやって考えると、「そんなこだわりバカバカしい」と思えてきませんか?
善悪について
遠慮様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
まず、善悪というものは、それぞれの主観的なもの、あるいは、恣意的なもの、また、一般的なものなど様々な基準や価値判断があり、更には、世間で言うところの善悪のレベルと、世間を超えた仏教の考える究極的な真理のレベルにおけるものとでも、異なるものとなって参ります。
究極的な真理のレベルにおけることは、非常に理解が難しいものとなりますが、世間一般の考えているような善悪のレベルにおけることであるならば、道徳・倫理・法律の世間的な常識の範囲において、自分だけではなく、他にも利するように、それぞれを分別して思慮して行動していくというのは、大切なことであるかと存じます。
それが、もっぱら自分の自己中心的なもの、自己都合や自己満足的なものとなれば、やはりただの迷惑である可能性も高くなってしまいます。
善悪をしっかりと分別しながら、悪を退けて、善を勧めるということは、世の中を過ごす上での基本的なことでもあるため、多少囚われてしまってはいても、さほど問題はないことではありますが、自分の保身のためや自己満足、独り善がり的なものが強くあるであるならば、問題が多々出ることになるため、そこは修正していかなければならないように存じます。
まあ、善悪の分別に囚われていたとしても、私益と公益のバランスをどう良好に保つのかということが大切になるのではないかと存じます。
もう一方の、仏教の考える究極的真理のレベルにおける善悪というものは、「不善不悪」「非善非悪」などといった表現で表すことになりますが、これはある程度、理解の段階を踏まないと、誤解を生じさせてしまうリスクも大でございますため、もし、この先において、仏教を修習される中で、少しだけ頭の片隅に置いておいて頂けましたら幸いに存じます。
川口英俊 合掌
善悪は大事です
善とは、悩み苦しみがなくなる方向。
悪とは、悩み苦しみが増える方向。
だとしたら、善悪は大事です。
もしかしたら、善悪の皮をかぶった「勝ち負け(誰が正しいか勝負)」にこだわってしまっているのかも。
それは、プライドの煩悩と怒りの煩悩、つまり悪なのではないでしょうか。
仏教は、自分と他人の悩み苦しみを無くしたり制御したりするための教えでしょう。
善悪は重要ではないでしょうか。