死んだら会えますか?
先日の俳優さんの死で、どちらかと言うと好きな芸能人の1人というだけだったはずなのに何故かすごく悲しくて、毎日何もやる気になれません。
お会いしてみたかったという気持ちがなぜかすごく湧いてきて、他の好きな芸能人が亡くなった時とは比べ物にならないくらい悲しくて、身内が亡くなった体験の次に辛いです。
身内にはいつか自分が死んだら会える、それまでは時々見守ってもらえていると思って頑張れるのですが、会ったこともない方には自分が死んだ後に会いに行くことは出来ないのですか?
なぜ関わりのないそこまで大好きだったというわけでもない方なのにこんなに辛くて頭から離れないのでしょうか?
また、その方は私が目指している世界で成功していた憧れの人(たくさんいます)の1人でした。そんな方がこんなに苦しんで自ら死を選んだということが衝撃的で、ただでさえ険しい道なのにそこを突破しても苦しむことになるのかと思うと怖くなります。そこまで行けなくても苦しいし、でも諦めて安定の道を選んでも後悔しそうで、生きることが億劫になってきました。アドバイスよろしくお願いいたします。
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死を通じて得ることもある
CATさんのご心痛お察し申し上げます。
私もそうでしたが、今回の俳優さんの死は衝撃的でした。
自死のようでしたが、これからの活躍を期待されていた人ゆえに、ファンをはじめ仕事関係の人々を含め多くの影響を与えました。
私が一番心配するのは、このような自死が「死」に対する考え方にも影響するということです。命に対する大切さが失われてしまうことです。命とは簡単に手にすることはできません。せっかく頂いた命ですから、大切にしなければなりません。
CATさんのご質問ですが、死んだら会えるということですが、
まず死とは肉体の変化のみであり、物質的には火葬すれば灰になり、土葬しても形はいづれ崩壊していきます。しかし、魂と意識は不滅ですから、言い換えるならば、肉体という乗り物に魂と意識が一体となった状態が生きているということであり、死とは乗り物としての肉体は滅び、魂と意識はそのまま消滅せずに継続されている。という仕組みです。
どのような方法(自死など)でも、状況(病気、ケガ、事故、災害等)でも肉体の活動を維持していくことができなくなった時、死という表現になるのでしょう。
ゆえに、この世では会えなくても次元が変われば会えるとなりますが、しかし、同じ次元ではそれも可能かもしれませんが、多岐にわたる次元では違うとそれは分かりません。
でも、心(意識)の中で通じていると思えば、たとえ返事がなくてもなくても、それでいいのではないでしょうか。
身内でなくても気になっていた方の死というのは辛いもです。しかし、人間はいつかは亡くなるのも自然の摂理です。
身内の死や気になる方の死を通じ、死とはなにか、生きるとはなにかを、このような形で教えてくれているのではないでしょうか。
せめて、こうして生かされている間は、少しでも安穏に楽しく共存していくことを意識することが大切であり、それが人間として誕生した一つの目的でしょう。
CATさんの人生がより善きものでありますに。
またお話ください。
質問者からのお礼
ちょっとまだ理解することが難しいけれど、自分が死んだ時に会ってもらえて「あなたを目指して頑張りました」と言えるくらい凄い人になれるように頑張ります!彼の分まで作品を届けます!!