普通の人が憎いです
こんにちは、同性愛者の大学四年生です。普通の感性を持ち合わせていないことと無能なことが特徴です。
本題ですが、普通の人を見たり聞いたりすればするほど無性にイライラするし憎らしくてたまりません。特に普通の人のくせに悲しんだり苦しんだりみじめったらしくしているような人を見ると何を驕っているのかと殺してやりたくなります。どうすれば忌々しい普通の人への憎しみを捨て生きていて良かったとき思えるようになるでしょうか。
私はここ7年くらい普通の人の素敵な感性に合わせた言動をして周囲との摩擦を減らそうとしているのですが、この言動が精神力を削っている原因だと考えています。
周りに合わせる必要なんてない、自分らしく生きようとかいう素敵な理論が存在することは勿論知っています。しかしながら、私は普通の人に合わせてあげるようになる前、いわゆる私らしく生きている間の10年以上普通の人々に疎外され、怪物か何かみたいな扱いをうけ、誰にも助けて貰えませんでした。
結局自分で自分を守るために、「普通の人に丁寧に合わせてあげる」「普通の人として生きていくためにやらなきゃいけないことを随時制定し完遂する」というルールをつくりそれに従っていくことで今までやり過ごしてきました。
自分の気持ちを全部無視して普通の人になりきることや、やらなきゃいけないことを無心でこなし続けると実際に普通の人として受け入れられるようになりそれなりに快適でした。
しかしながら就活という自分の将来を考える一大イベントを前に、無心でこなしつづけることが難しくなってしまいました。友人知人は皆何かしらの普通の人生の目標に向かって進んでいるのに、普通の人の真似事をし続ける生活が延々と続く自分のことを考えると馬鹿らしくて仕方ありません。(就活そのものは一応内定取れてます、やらなきゃいけないことでしたから)
普通の人ってなんであんなに気持ち悪いんですかね。
(周囲に隠している同性愛者であると確かに異性愛者と話している際の寂しさ、噛み合わなさはありますが私のいう普通じゃないっていうのは性癖は大きな問題ではありません。同性愛者も大半は忌々しい普通の感性を持っているので、私は同性愛者コミュニティの中でも周りに懇切丁寧に合わせてあげる必要があります。あるコミュニティ内で一度本音を話したら絶縁されたので以後は丁寧に丁寧に合わせています)
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
苦しみの原因はどこにあるか。
ご相談拝読しました。
何か周囲と相いれない感覚が有り苦しい思いをしてきたのですね。丁寧に合わせる術を身に付けて勤めてはきたが心が疲弊してしまったのですね。
読ませていただき思う所は、あなたの言う「普通」・「普通じゃない」とは何なのでしょうか。それは誰が作っているものでしょうか。誰にとってのものでしょうか?
そして「合わせる」というのもどういうことでしょうか。それが
・私はAという考えを持っている。あなたもAと思わないといけない。
・私はAという考えを持っている。あなたのA以外の考えは間違いである。
という様な事でしたら、それは「普通じゃない」ことで軋轢を生むのでなく、押し付けによってのものだと思います。
おそらくあなたは有形・無形の方法で押し付けられてきた経験の方が多いのかもしれません。
しかしあなた自身はどうでしょうか?「普通」・普通じゃない」という線引きをするとき、あなたの価値観・基準で他を裁いてはいないでしょうか。
理想論で綺麗事に聞こえるでしょうが
・私はAという考えを持っている。あなたはBという考えをもっている。それぞれ認め合いましょう。ぶつかる部分は協議して妥協点を探りましょう。
というのが本来的な「合わせる」ということだと思います。あなたは人一倍苦しんできた自覚があるからこそ他者を認められないのでしょうが、実はそのことが自分をも追い詰める結果を招いている部分があるように思います。
普通とか普通じゃないとか、合うとか合わないとか、ギュッと握りしめて頑なになっているものを手放せたらいいですね。
もちろんあなたをそこまで追い詰めてきた社会の理解が進むことも同時に願うところです。
※ここでは私たち回答僧に「合わせる」必要はありません。真摯に受け止めてお考えいただいた上で、いくらでも正直な思いをこちらにぶつけてください。またいつでもご相談お待ちしています。
それがまさに普通の考え方なのでは?
ご自身を特別視するあまり、人を蔑み、無能感に苛まされるのではないでしょうか?程度の違いこそあれ、自分を特別だと思いたい願望は誰もが持つものです。
我必ずしも聖(ひじり)にあらず
彼必ずしも愚かにあらず
ともにこれ凡夫(ただびと)ならくのみ
「十七条の憲法」
特別でなければならない、特別であるべきだ。誰もが陥りがちな人生の落とし穴であり、そう考えるのはまさに普通の人生かと思います。人と違うところがあって当たり前ですが、特別と違いの区別がままならず、上下優劣という物差しへ執着に、私と変わらない普通さを感じます。
特別である必要はありません。実は誰しもが普通であり、普通で良いのではないでしょうか?
質問者からのお礼
お返事ありがとうございます。
憎い気持ちから逃れることは簡単にはできませんし、私の無能さや周囲との噛み合わなさは実際に存在しており露見するたびに苦しいです。
それはそれとして、最近普通の人という言葉を使わないようにしています。普通の人と普通じゃない人を区分けして考えるのは確かに選別的な行為でした。普通の人を憎む気持ちは全く変わらず存在するものの、普通という言葉を自分で使って苦しむ機会を減らすことには効果があるような気がしました。
ありがとうございました