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悩んでます。

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有り難し有り難し 21

初めまして。
私はたくさんの病気にかかり余命宣告を三年前に受けました。
当時は余命1ヵ月と言われたのですが言われた日から三年経ちます。
命さえあるものの体はどんどん弱り自分で歩く事が出来なくなりました。
リハビリをすれば歩けるようになると思うのですが少し進歩したらまたコケて振り出しに戻るを繰り返しています。
だんだん気も滅入り今では私が生きていれば周りに迷惑がかかるので死にたいと思うようになりました。
私の願いは自分の足で歩けるようになり娘や周りの人に迷惑かける事なく自分の事は自分で出来るようになる事です。
そう思うものの毎日思ったような成果が出ずベットの上で悩む毎日です。
毎日苦しいです。
この気持ちどうしたらよろしいでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

どっちが怖いですか

自分が死ぬのが怖いでしょうか。
誰かを残して死んでいくのが怖いでしょうか。
どちらが怖いでしょうか。
自分だけが死んでいく分には人間さほど怖くはないのではないでしょうか。怖かったら下記まで。
坐禅仲間だったMさんはドコモのクレーム処理係にお勤めでした。30代という若さで亡くなられました。
「死ぬのは怖くなくなりました」

坐禅によって思考に染まる以前の心のありようを会得されました。
禅の悟った老師方の元を遍歴し、出家なされました。
「人は考えによっては救われない。事実によってのみ救われる。」
彼の遺言の一つです。
この言葉は多くの人に希望をもたらす、最高の愛だと思います。

考えで以て、死にたくない、苦しい、イヤだ、何とかしたいという考えや思いから救われる事はできません。
事実によってのみ救われるのです。
事実とは、あなたの今、そこ、目前にあり続ける、永遠の現在進行形の一瞬一瞬です。
そこには「あなたの私見」が付着していません。
自分の思いが生ずる以前の事実を感じてみてください。
お近くでしたら、坐禅会にお越し頂きたいのですが、福岡です遠いですからお電話や、フェイスブックのTOKYO禅ページでも思いから救われる道を説いています。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ