仏教の苦とメンタルヘルス
コロナ禍もあり、現在心療内科に通院中です。様々な心身症状に苦しんでいます。アドバイスで、毎日些細なことでも良いのでなるべく、前向きなこと、ポジティブなことに目を向けるようにしておりますが、中々うまくいきません。(日記をつけることを推奨されています)
一日無事に終わったとか、食事が美味しかったとか、空がきれいだったとか、当たり前と思っていることに感謝をすることかと思います。
一方、仏教では生まれてきた事自体が苦であるとしていると思います。前向きな考えやポジティブシンキングは、苦の中にあっても可能なのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
陰陽
"前向きな考えやポジティブシンキングは、苦の中にあっても可能なのでしょうか"
逆に、一切の苦のないユートピアのような世界にポンと産み落とされたとして、そんな世界でどうやって前向きである事を確認するのでしょうか?どのようにすればポジティブシンキングであるかを確認できるというのでしょうか?
【こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし】親鸞
苦しみを無くそうと思わないで
苦しみを無くそうと思わないで、常に苦しみがあり、苦しみは無くならず、ただ苦しみの形が変わっていくだけだと考えてはどうでしょうか?
小学生には小学生の問題があり、中学生には中学生の問題がある。
小学生が小学生の問題を解くことと、中学生が中学生の問題を解くことと、どちらも同じなのです。
やって来た目の前の苦しみに反応して、今できることをできる範囲でやるだけ。
「感謝」とか無理に意識する必要さえもなくなります。
リラックスして鼻唄でも歌いながら、毎日毎日の目の前の出来事(やってくる苦しみ)にアドリブで対処して、死ぬまで生きればよいだけなのです。
毎日の生活を1秒ごとに区切って、今の1秒の苦しみに対して適当に反応しましょう。
人生は複雑で難解な大長編物語ではなく、1秒間ごとのシンプルな短編物語の集まりです。
お葬式に向かって歩く1歩も、遊園地に向かう1歩も、シンプルな1歩の物語は、こけないように足を運ぶだけ。
スマナサーラ長老『苦の見方』(サンガ新書)
という本があります。他にも『無常の見方』と『無我の見方』も、同じスマナサーラ長老によるサンガからの出版です。
無常、苦、無我の意味はずいぶん誤解されてきました。スマナサーラ長老の平易な日本語による平易な解説で、その意味が理解できると思います。
質問者からのお礼
皆様
早速のご返信有り難うございました。