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職場の一人にイライラしてしまいます

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有り難し有り難し 35

私は決して学習ができて、数字にも強くて、かしこい。というわけではありません。
同じ職場から働く仲間からは、
時折おバカさんだけど、元気で前向きでいいね!
と言われます。

ただ、一緒に働く一人の仲間から、
私のことをポジティブなだけ、論理的ではなく根性論でいく、みたいな言い回しで言われたり、
優秀な人の例えをよく出してこられたり、
バカにされてるような言い方で私に接してきます。まるで自分は優等生、とでも言ってるかのようだったり。

最初は聞き流して受け答えもできたのですが、最近はこの仲間からのちょっとした会話にイラっときて仕方ないです。

お坊さまは相手に継続的にイラっとするとき気持ちをどう落ち着かせてますか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

土俵に入れずに 既読スルー

これが一番です。
自分のフィールドに取り込まない。
相手はあなたの土俵に上りたいのです。
そうすることであなたの中で意識されて勝負優劣が生まれる。
そして苛立たせるような言葉を言って買ったような気持ちでいるのでしょう。
それは小さい人間のする事。
その挑発に乗ればあなたも小さい心になる。
私は知人たちで口を開けば悪く言う人間は、相手にしていません。
言ってもしょうがないことを言っているだけだからです。
あなたがキャッチしなければ自然にその言葉は本人の元に返ります。
そうすれば自分が恥ずかしくなって、言わなくなるでしょう。
あまりにもしつこい時は「恥ずかしくないですかー」と一言だけ言いましょう。
人のことを悪くいうことは、その人の劣等感や妬みなどもあるのかもしれません。
あなたが構わなければ、自然にどこかへ消えていきます。
禅会では「わたくししない」という助言をしています。
自分の中に取り込まず、自分のルールを押し付けず、自分のストーリー(妄想・妄見)に溺れない。
そこに「わたくし」が介入されなければ、その人が勝手にしゃべっているだけで寂滅になります。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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