「させていただく」
こんにちは。初めて質問いたします。
お寺や修行のドキュメンタリーを見ることが多いのですが、その中でよく修行僧の方が「○○をさせていただく」(例えば回峰行であれば、歩かせていただくという風に)という表現をよくされることに気づきました。
こちらの表現には何か元となる仏教の精神や教義はあったりするのでしょうか?
初歩的な質問かもしれませんが、よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
阿弥陀様発の表現
こんにちは、初めまして。
「○○をさせていただく」という表現は、「元となる仏教の精神や教義」があるのかというご質問です。
浄土真宗においては、明確にあると思います。それは行為の主体が、一見自分のようであるけれども、その実は仏様、阿弥陀様によって働きかけられた結果、お蔭である、と考える教義があるからです。
その仏様からの働きかけを、他力ともいいます。他力本願という表現はお聞きになられたことがあると思います。
これは、他力=本願力という事です。つまり、阿弥陀様(他)が私達人間を救おうと願いを建て、その願いを実現する力で私に働きかけておられる、という意味合いです。
この際、私達人間の方が100%受け身であって、救いの恩恵に与り、お念仏を賜って、信心を賜って極楽浄土への道が開かれる、と考えています。
このような教えの醸成を受けて、自分の全ては阿弥陀様前提、お陰様の存在前提での表現となっていった、と聞いております。だから、〜するという自分発の行為の表現ではなく、阿弥陀様発の行為の表現である〜させて頂くという言い方が発達したと考えています。
賜りもの
"こちらの表現には何か元となる仏教の精神や教義は"
いえいえ、そんな小難しい話ではありません。
自分で創り出したものなど、ひとつもないからですよ。
「一億円あったて、金魚一匹つくれんばい」
『佐賀のがばいばあちゃん』島田洋七