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三毒の瞋恚について

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少し、仏教(日本の仏教、大乗仏教?かわかりませんが)を調べてみたのですが、三毒という概念が出てきました。そこの怒り、瞋は世の中を悪くする毒だという考え方に触れました。
ですが、私が思うにこの毒こそ、今の世の中に必要な薬ではないのでしょうか?
今のしらけきっている世の中では本当に救われる存在に対して別に心動かさない。私と関係ないという愛のない空気が漂っています。そんな中だからこそ、ちゃんと憎むべきだと思うのです。不正や、不義を見つけ、恨み、ほかの不正、不義に怒り、徳をかざすもの(徳の騎士)達の闘いこそが、この世の中に血を通わせると思うのです。確かに多くの人達が死ぬでしょう、正義もみつからないでしょう。ですが、不毛なものではないと思うのです。その痛みを知ったからこそ愛を求め、与えることができるのではないのでしょうか。転じて、少し仏教ディスをしますが、なぜそういった熱い魂を毒と切り捨て、平穏という退廃を望むのですか?それは持っているもののみ、自身の苦しみに気づかずに他人を傷つける愚者を増やすだけではないのでしょうか?それでは真に救うべき絶望に抗い、戦う者達に失礼ではないですか?そのものらは心の安寧のために戦っていると?一度、絶望したものは死ぬまで安寧とは無縁の人生を送るでしょう。そんな者達に安寧は残されていると?彼らはただ絶望と戦い、苛烈に人生という闘争の中、死ぬことだけが救いだと思うのですが、どうでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

不正を糾すということ

こんにちは、初めまして。

「熱い魂」を語るその心意気は良いと思います。

「不正や、不義を見つけ、恨み、ほかの不正、不義に怒り、徳をかざすもの(徳の騎士)達の闘い」と書いています。

では、その基準となる正しさ、正義等をは誰がどのように決めるのでしょう。

あなたの主張は、宗教は阿片であると言ったカール・マルクスの『ヘーゲル法哲学批判序説』に似ていると思います。

社会変革をしていく必要性があるのに、宗教というのは変革への意志を失わせ、現行の秩序に満足し従順な人々を作り出してしまう、という主張です。

マルクスは搾取する貴族階級や資本家を批判し、その不正を糾弾して世を変革しようとしました。

このため、この理論に基づいた共産主義国家が誕生しその代表的な例が旧ソビエト連邦です。このソ連ではスターリンのような数々の独裁者を輩出し、多くの人を独裁者流の正しさをもって粛清して行きました。人の命を奪うことに正当性はないという人類共通の正しさに反して。

これは不正をなくそうとした理念、人間が不正そのものになっていった一つの例です。

仏教はそういう正しさを唱えるものが、正しくなくなる危険性を含んだ上でそれを毒だと言ってるのです。

人間には多かれ少なかれ自分の都合、自分の欲望に基づいた心を抱き、貪欲に求め、都合の悪いものに怒って排除する危険性をはらんでいると。

もしあなたがこれから仏教のご縁があるならば、その教えが本当に言おうとしてることを自分のこととして考えながら学んで行かれることをお勧めします。

社会をよくしていこうとするならば、感情の不安定さや危険性を孕んだ怒りではなく、冷静な対話、きちんとした手順を踏んでいくことが大切だと思います。そう時に自らを省みる姿勢があればもっとよろしいでしょう。

追記
あなたは「回答ありがとうございます」書いていますが、何をどう有難うと言っているのですか。私の回答について何一つ反映されていない返信を書いていますが。質問して相手に回答を求めておいて、回答に触れず自説だけ開陳する場ではありませんよ。

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釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...
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ウイルスに怒らなくても消毒はできる

正しいことを主張したり、現状に疑問を抱いて創意工夫することは、怒りの気分がなくてもできます。
ウイルスをアルコール消毒するとき、いちいち「憎たらしいウイルスめ!あームカつくムカつく!」と腹を立てる必要はありません。
警察官が犯人を逮捕するときも、過ちを犯してしまった犯人やとばっちりを受けた被害者を慈しみ哀れみつつ、法律に則って冷静に作業はできます。
ボクサーが対戦相手を殴るときも、べつに相手に恨みがあるわけではありません。
怒りの気分は悩み苦しみやストレス、トラブルやケアレスミスにもつながります。
平安な心と冷静な頭でやるべきことをやるのが、仏様の教えです。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
続けさせてもらいますと、正しさはそれぞれの闘争(論争だったり、決闘だったり、革命であったり)での適者生存、勝ったものが正しさという決め方と考えます。事実、勝てば官軍、負ければ賊軍という言葉もありますし。ですが、もちろんこれは正義などではありません。ただの独りよがりな論理です。故にこの正義はまた悪として祭り上げられ、打倒されなければならない。そうやって瞋を持ってして、自身の理想を掲げ、それを持って戦い、正義として勝ち、また悪として死ぬ。この諸行無常と輪廻の概念を持ってして、醜くも激しく生き、戦い、死んでいくことが私のような何もない吐きだめから生まれた者の唯一の救いの道だと思うのです。正義を敷くことが目的ではなく、その正義達が争い、痛みを背負い、憎しみを背負い、その中にある自身の独りよがりな依り代。ただそれだけを持って苛烈に生き、死ぬこと。今の、この鬱屈とした日本に必要なことではないでしょうか。そもそもそう言って自身の正義を胸に抱き、戦って死ぬという事は理性でもってして決められ、情熱を持ってしてされるものです。確かに冷静な対話やきちんとした手順はなされるべきです。ですが、そんな冷たい秩序がある世の中なんて価値があるのでしょうか。私はそれよりも悪でも正義でも、激情でもなんでもいいので変容し、無秩序で、私自身の手によって自身の人生への弔いのために戦う世の中になって欲しいと思うのです。今、書いている最中で気づきましたが、これはほぼ自分の願望です。自分の様に冷たくあしらわれ、何もない死んだような人生を送っている私に魂を吹き込んで欲しいという願望からです。ですが、そういった人は多いのではないのでしょうか?そういう意味である程度筋の通った意見だと思いますが、ご意見お聞かせください。

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良い人・優しい人が損する理由

YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。

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