懺悔します。罪悪感と自己嫌悪止まりません
以前、電車の中で痴漢をしてしまいました。
駅に着いたときに腕を掴まれそうになって、咄嗟に走って逃げてしまいました。
今でもいつ警察が来るのか、怖くてしょうがありません。
悪い事だというのはわかっていて、卑劣な行為だという事も分かっています。端的にいって人間のくずだと思っています。
過去に一度留置されたこともあります。
きっかけは些細なことでしたが、そこからどんどんエスカレートして、自分を止められないでいました。
なるべくすいている時間にいったり、混まない電車に乗ったり、しそうになったら自分に罰を与えるなどしています。
本当はやりたくないし、もう辞めたいのにその時々の感情に支配されてしまう自分がいます。
その時の感情に支配される自分が嫌いで、本当に申し訳なくおもっていて、それでも満員電車が来ると自然と目で追ってしまう自分が嫌いです。
病院に行った方がいいと探していて、近く心療内科を受けようと思っています。
自分を思ってるくれる家族がいて、自分を信じてくれる友人がいて、それでも支配されてしまう自分が嫌いです。
誰にも相談できずに、またやってしまうのではないかと怖くて仕方がありません。
今はテレワークが世の中的に認められているので、出来るだけ家で作業する用にはしているのですが、それでもたまに会社に行かなければいけないときに(且つスケジュール上、どうしても満員の電車とバッティングしてしまう)電車に乗るのがつらいです。
このどうしようもない気持ちと相手に対する申し訳ない気持ちとごちゃごちゃになって苦しいです。
逃げ切れてしまったことで余計に苦しいです。
心の中では神様が最後のイエローカードを出していただいているのかとも思っています。
だからこそ、今は自分の気持ちと向き合って、相手に謝罪の気持ちを祈るしかありません。とにかくごめんなさい、もう二度としません。ごめんなさいと祈っています。
私はどうすれば赦されるのでしょうか。
もうしたくありません。まっとうに生きてちゃんと自分の力を使うべくところで使いたいです。家族に笑顔でいてほしいです。
ごちゃごちゃな文章で申し訳ないです。
出来ない自分を認められない
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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懺悔と引責は別物
こんにちは。
以下は、あなたにとって不本意な回答の可能性があります。そのような回答を望まない場合は以下を読まないでください。
あなたは、「神様」「謝罪の気持ちを祈る」「赦される」と書かれていて、どの辺りに信仰があるのか、それとも無宗教的な上での表現なのかは、私には分かりません。
ただ、仏教的には「赦され」て無罪放免とはなりません。人間みな同様であるように、あなたの行為(業)はあなた自身でその責任を引き受けていかければいけません。また、「謝罪の気持ちを祈」ったとしても、相手にそれが届いて「赦される」とも考えないのです。
あなたは、「過去に一度留置された」経験があり、自分にはそういう癖があるとわかっていながら今回再び痴漢をした。「腕を掴まれそうになって」ということは、これが被害者によるのか、周囲の人間によるかは分かりませんが、客観的に被害を受けたことが周囲、或いは被害者本人にも明確なのでしょう。
被害者本人は、どれほど精神的に傷がついたでしょうか。
もう二度と電車に乗れない、或いは会社に行けないような被害を受けた可能性もあります。
その被害に対して、あなたは心の中だけで「謝罪」「祈る」、「心療内科を受け」て自分の心と向き合うと書いています。そして、表面上変わりのない生活を送り、「家族に笑顔でいてほしい」とも。
あなたの心の面をどうするか、ということと自分の業の責任を取るということは全く別物です。
自分が明確に法的な犯罪を犯し、被害を受けた人がいる。ならば、正直にその業に向き合って、被害者に謝罪し、賠償し、然るべき罪を受ける。これが本来の意味で、「まっとうに生きてちゃんと自分の力を使うべくところで使いたい」というあなたの方向性とも合致するのではないですか。
このハスノハでも性的犯罪で苦しんでいる女性の投稿がしばしば見受けられます。相当に苦しんでおられますよ。あなたが「赦される」以前に、被害を受けた人にせめても何が自分には出来るのかを問うべきではありませんか。
あなたが自分の罪悪と向き合って、生き方の根底からやり直したいのなら、然るべき方法を取ることを勧めます。
いや、そんな自分の仕事、生活を犠牲にするようなことはしたくない、という考えなら私には掛ける言葉これ以上ありません。
取捨選択はご自由に。