故人を思う気持ちだけではダメですか?
先日夫の母が亡くなり、夫が喪主をつとめました。少し事情があり、葬儀は極めて少人数、その後のこともバタバタと大急ぎで進めてまいりました。
私達夫婦は30代でそれほどお金がなく、葬儀の祭壇も小さいものしかできませんでした。
お坊さんにこんなことを申し上げるのは大変失礼なのですが、葬儀こそ「間が持たないから」とお経をあげてもらいましたが、位牌も仏壇も夫の考えで無し、納骨もジーパン姿で石屋さんと簡単に済ませました。
母が住んでた家もすぐに売却し、取り壊されました。形見分けもできるような状態でなく、すべて処分しました。
親戚は私達のやり方に任せてくれています。
しかし母の友人はことあるごとに、家を売却してしまったこと、仏壇を捨ててしまったこと(とても使える状態ではなかった)、葬儀に〇さんを呼ばなかったこと・・・色々と、私達が「常識からはずれている」と指摘してきます。
母も生前お世話になった方なのは承知ですが、私達も考えがあってこういうやり方をしています。
それに何をするにもお金がかかりますし、今後生きるためのお金を故人のために使うのか?と不躾ながら私は思ってしまいます。
母とは嫁姑的なこともそれなりにありましたが、思い出しては笑ったりまたムカついたりしています。
それだけじゃダメなのでしょうか?
亡くなって数か月経つのですが、その友人が何かと電話をかけてきてダメ出しをするので毎日が憂鬱でたまりません。
失礼を承知で相談します。何もしない供養はいけないのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人間関係の問題
供養については、亡き人のために様々な形で仏教的な「善い行い」をやって功徳(善い行いをすればするほど心に良い癖がつくという効果)を積み、その功徳を亡き人のために回し向ける(シェアする)よう願いを込めれば、それで良いのです。
つまりは、やらなかったからマイナスポイント(罰)はありませんが、やればプラスポイント(功徳)になるとお考えください。
亡き人のために、南無阿弥陀仏と念仏を唱えて冥福を祈るだけでも功徳はあります。
仏教的には以上です。
ただし、冠婚葬祭には人間関係がつきものです。
友人同士だと、たとえば自分がお祝いをもらったら、次の機会にはこちらがお返しをしたいと思うのも人情です。
ご友人は、姑さんに「お返し」や「お礼」や「お別れ」をしたかったのかもしれません。
それは、友人にとっては自然な感情ですから、慈悲の心で受け止めてあげましょう。
なお、仏教ではケチは煩悩の一種だと考えます。
煩悩とは、悩み苦しみストレスの原因になる感情のことです。
亡くなった人のためにお金を使うことについて、ケチの煩悩があるとストレスを感じます。
ない袖は振れないですが、お金を使うときはケチケチの怒りを捨て、気持ち良く未練なく楽しく使いましょう。
冠婚葬祭の出費なども、それによって喜んでくれる人がいるというプラス面に意識を向け、どうせやるなら自分も楽しみましょう。
結局、やってもやらなくても、後悔せずに楽しくやりましょう。
「何もしない供養」とは、「供養しない」とい意味ですよね
母の友人は、しゅうかさんから見れば、口うるさい方なんでしょうね。でも、私から見れば、お母様のことを思い、あなた方のことを心配して言ってくれているのでだと思います。
亡き母のことは思う気持ちはあると言われていますが、その気持ちを形や行動に表すことを「供養」と言います。
具体的に説明すると
1、故人のために、花やお水やお茶や食事やお香を供えること。
2、故人のために、お経や御詠歌を唱えたりすること。菩提寺の住職に読経してもらうことも、これにあたります。
3、仏法を学び、其の教えに則った行いに努めること、仏道修行して、善根功徳を積むこと。
故人のことを思っているというのなら、故人のために何か行動するのが人の道だと思います。心の中にある思いを上記の1~3のような形に故人に伝えることが、大事なんです。
花を供えるといっても、自分で栽培して育てれば原価は安いと思います。山野草を摘んでお墓に供えてあげてもいいと思います。其の人その人で収入が異なりますから、葬儀や供養にあまりお金をかけることが出来ない場合もあると思います。ならば、限られた予算の中で出来る範囲で花を供えご飯やお茶を供えれば良いと思います。
家を処分したら、いくらかの売却代金が入ったと思います。その売却代金の一部を故人の供養のために役立てるくらいも気持ちをもっていただきたいものです。
質問者からのお礼
その後いろいろあり離婚をしましたが、結局私は何度か義母の墓に足を運び、心の中で報告をしたり、娘を連れていっています。見てるのかな、伝わってるのかな、と、お空の上のことはわかりませんが…
色々と後悔もあります。死後の色々のついての相談だったはずが、生きてる時にもっとこうしておけば、という想いばかりです。