重度障害児の母です。
私の子供は先天性の病気で重度の障害があります。すべてのことにおいて介助が必要です。
第一子だった為、特にショックが大きく現在は立ち直ったつもりですが健常児を見ると辛い時があり、子育てについての話も合わないことから健常児の親さんとの交流はありません。
普段は気丈に振る舞っていますが
今でも何で私が障害児なんか、、、という思いが消えません。死にたい、死んでも後悔なんてない、と思ってしまうこともあります。酷い母親ですね。
私のもとに障害のある子が宿ったのには何か意味があるのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
苦難かと思う暮らしを楽しげにこなして生きる心の在処
障害をもったお子さんが生まれたことのショックはよく理解できます。
人はだれでも自他を比較して楽な方を羨んだりするものです。
あなたは、仏教的な考え方でいえば、親を選んで生まれてきたのですがそのことの自覚はないと思います。どのような親のもとに生まれてくるかは全く偶然のように思いますが、前世からこの世に転生するときにご自身で選んで生まれてきたともいえます。
自分の姿形がどんなものであっても、誕生で与えられたいのちの有り様は、買い物で品物を選択するように、選り好みは出来ない一回限りの尊いものです。
あなたのお子さんもきっとあなたを選んで生まれて来られたのです。
このお母さんならと思ってそこへやってこられたと思います。
楽健法を勉強に来られた寝たきりの障害をもった親御さんがいられましたが、その方は障害のある子供さんのことを話されたとき「あの子のお陰で私はこうして元気で過ごせています。あの子は私の宝です。どれだけおおくのことを学んだかしれません」とおっしゃっていました。
あなたも本心ではわが子に障害があるからと疎ましく思ったりはしていないことと思います。
どんな状況であっても変わらぬ愛情をそそいでくれる両親の愛をきちんと感じてお子さんは毎日のいのちを楽しんで生きていられます。
障害をもったお子さんを、一生見守って来られた母親を他にも知っていますが、よその子と比較して僻んだりしない尊い心をもってごく普通に暮らしていられました。
スプーンで食事を口に運んであげたりしながら、二人で語らいながらしあわせを紡いでいられたのだと思います。そのお母さんのことを思うとすごいなと、見ていて頭がさがります。
昔書いた私の詩の一節
ありのままの子供や人々を
あるがままに愛さなくてはいけない
ありのままの人生と自分をみつめる
その時ほんもののしあわせが
むこうから立ち上ってきて肩をたたく
大丈夫。救われる道はあります^_^
はるはるさん
その気持ちよく分かります。
わたしも同じ重度障がい児を持つ親です。
わたしの場合は、後天性のもので、昨日まで元気だったのに、気づけば生死の間に子供がいました。病院から呼び出され、医師からの説明を聞くと、生きても重度の障がいがのこるといわれました。話すことも立つこともないと言われました。受け入れるまでの時間はかなりかかりました。
その時のわたしは、子供の心配より自分の心配をしました。人目を気にして、どこにも出かけられないのでは。障がい児の親ということで人に壁を作られるのでは。自分も普通ではなくなる。そんな自分勝手な価値観に苦しみました。
しかし、今は、そんな気持ちなくなりました。救いは禅にありました。
すべての苦しみは、自分自身の作り事であった。子供は自分の今の有り様を受け入れ、生きている。わたしはわたしで、誰と比べることなく、与えられた環境で、事実に生きているだけだと気がつきました。
とても楽になりました。人に隠すことなく、こうして話すことができるようになりました。悲しいことではない。他の親と壁を作っているのはあなた自身であるのです。そこに気がつくためにも、是非、禅を実践していただきたい。