坐禅が坐禅するとはどういうことですか。
昔、坐禅が坐禅するということを聞いたのですが、よく分かりません。
検索をしても出てこないので、詳しいお方ご教示ください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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恐らく正法眼蔵坐禅儀かな?
まちやんさん、坐禅に興味がおありのようで嬉しい限りですね。
さて、「坐禅が坐禅する」という言葉自体は分かりやすく表現された言葉と思います。さぞ優秀な僧侶に教えを頂いたと思います。
そもそも、坐禅はヨガの一部でしたが、お釈迦様が悟り(12月8日はお釈迦様が悟りを開いた日 成道会と言います)を開いた姿勢が坐禅でした。だから、そこから派生した教えが後の禅であり、禅宗なのです。
その後、中国の少林寺を開いた達磨大師が坐禅を布教したことで禅宗が確立されます。
達磨大師が中国の武帝と問答した内容にこのようなものがありますね。
武帝が即位して以来、寺を造立したり写経したり、僧を得度させること、記録としてこれ以上の者がないほどであったが、一体どれほど多くのの功徳があるだろうか?とたずねた武帝に対し、達磨大師は「無功徳(功徳など無い)」と答えたともされます。
この無功徳こそが坐禅の本質を表わしています。坐禅をすれば全集中出来る訳でなく、坐禅自体の中に全集中出来たのであり、過程と結果は同じものであり、坐禅自体が出来たことが全集中であり、全集中出来たことが坐禅なのです。
無功徳とは良いことをしたら、功徳があるので無く、良いことが出来たことが功徳であり、功徳があったから良いことが出来たのである。見返りを求めないで良いことをしたのが無功徳でなく、良いことをしたその行動自体が功徳であり、その後に功徳は無いということなのです。
さて、正法眼蔵坐禅儀では「参禅は坐禅なり」という言葉から始まり、「坐禅
は習禅にはあらず、…」に至り終わります。坐禅は坐禅をして足が痛いときも痛く無いときも同じ坐禅である。坐禅して足が痛い人を足が痛く無い人が「修行が足らない」と言ったらそれは坐禅して無いのである。坐禅は坐禅のため行うのであり、坐禅が坐禅するにつながるのでは無いでしょうか?
まぁ一番早いのはその言葉を発した僧侶に会うことでしょう。分からないことは素直に分からないと聞くことは私なら望んでおります。
質問者からのお礼
大鐵様、お詳しいご説明をありがとうございました。
とてもよく分かりました。ありがとうございます。