仏教にて心の苦しみを無くしたい
仏教で、どうか救って下さい。生きるのが辛く、苦しいです。四諦を見てこの世はまず苦しみだらけと理解し、次に煩悩、渇愛、貪欲が自分を苦しめるものと理解し、諸行無常といういつか不幸は起こるもの、覚悟しろという形を学び、諸法無我にて我執を捨て煩悩を無くそうとしました。合ってますか? つまり仏教とは「この世は全て嫌な物ばかり。だから愚かしく間違って何も願うな期待するな、何にも叶うわけがない非情さが常だ、夢なんて見るな、そんなくだらん欲を捨て、自分を一切酷く殺して、何も感じないようにして、傷ついても痛覚を無視して、死人のように生きろ」という意味なのでしょう? それでも仏教は救ってくれるのですか? ちなみに、僕はこの意味を自分の意見として持っているし、しかし本当は何を伝えたいんだ、と疑問を抱いています。仏教は、一体何をどう救ってくれるのですか? できるだけ、簡単に教えて下さい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
【群盲評象】
あなたの理解は真実を諦めた仏教の【智慧】ではなく、単なる【ニヒリズム】です。
「ゾウとはこういうものだ」「いや、ゾウとはそんなもんじゃない」と、ゾウさんを見たことない数人の盲人たちが、手で触れた部分だけで各々勝手な憶測で論争をする。まことに滑稽な話ですね。驚きを持ってこの一知半壊を破り続けていくのが、まさに仏教の求道というものでありましょう。
まー、そう結論を慌てなさんな。
これから。これから。
<追記>
"例えば救われるまで何処までの距離を指すのだ、とか"
どうしても面倒な言い方になっていまうのですが、時間とか空間とかいう物理的な問題が、笑っちゃうほど気持ちよく吹き飛んでいくんですよ。【空】って聞いたことありますか?
"内心呆れられ"
べつに呆れられてもいいじゃないですか。呆れる人も称賛する人も、誰もあなたの人生の責任を取ってはくれませんよ?
"歩いて、積み上げて、でもまた台無しに失敗する"
おっしゃる通りです。
不可逆な人生を軌道修正しては進み、微調整しながら進んでいく。あのとき舐めた辛酸も、このときすすった泥水も、振り返ればすべて美しかったといえる身になっていく。これこそが仏教に育てられる人生の醍醐味であると私は思います。あなたの成長過程は、他の誰のものでもないあなた自身の何よりの財産となる。
世界地図と詳細図
こんにちは。
「できるだけ、簡単に教えて下さい」とのことなので、なるべく簡潔にお話します。
「四諦を見てこの世はまず苦しみだらけと理解し」とあります。
あなたは、「四諦」の「苦諦」「集諦」という二つについて、苦しみの原因、仕組みの部分だけを上記で述べています。「道諦」「滅諦」、つまり悟りがあること、その悟りへの道があるということについて、どれだけ具体的に向き合ったのですか(いずれかの宗派に専念しましたか)。あなたの理解だけを素直に読むと、それは厭世主義とほぼ変わりません。
「四諦」とは、苦しみの原因から開放されていくまでの俯瞰的な地図です。しかし、地図は地図であって情報です。具体的に地図に書かれた現地を歩くのは他でもないあなたです。だから、私は先に書いたのです。あなたは、どれだけ具体的に向き合ったのか、と。
地図には、世界地図のような大まかな地図もあれば、一都市の詳細図もあります。「四諦」が前者ならば、各宗派の教えは後者です。
「仏教は、一体何をどう救ってくれるのですか」という地図、案内図はもう紀元前から既に明らかになっています。「四諦」として。後は、あなたがどの宗派の詳細図を手に歩くかです。
できることなら、師事する人を見つけて、一つの宗派を数年かけて専念してみてください。他の宗派と混ぜて曖昧に理解するとますます分けがわからなくなりますから。
以上です。
追記
これまでの苦しかったご事情は分かりました。
ご自分のペースで宜しいので、今後仏縁があることを願っております。
どうぞ、お大事に。
この世の全ては因縁によりて成り立っている
すずかさま
仏教は、「自灯明・法灯明」と釈尊が最期におっしゃられましたように、仏法を頼りとして、仏教の教えを自分で実践することによって、自分自身を救う(煩悩障の断滅・所知障の断滅、輪廻からの解脱)ことから悟りを開いて(涅槃に至り)、一切衆生を救うことへと向かってゆくのを目的と致します。
「この世は全て嫌な物ばかり。だから愚かしく間違って何も願うな期待するな、何にも叶うわけがない非情さが常だ、夢なんて見るな、そんなくだらん欲を捨て、自分を一切酷く殺して、何も感じないようにして、傷ついても痛覚を無視して、死人のように生きろ」
この世の全ては因縁(原因と条件)によりて成り立っており、因縁によって、楽しいこと、善いこともあれば、嫌なこと、悪いこともある。しかし、因縁によって成り立っているものは、実体の無い「空」であり、いくらそのモノ・コトを留めたいと思ったとしても、留められるような実体はどこにも見当たらない。あたかも芭蕉葉(茎の無い葉っぱ)のように剥いても剥いても芯が見当たらない如くである。
言ってみれば、蜃気楼を有るかの如くに錯覚しているような感じであり、その原因は、無明(根本的な無知)というきつい真実執着(それに実体があるのが真実であると囚われている)にあるのであります。
もちろん、何もないという虚無、絶無ではありません。そう考えてしまうと悲観的になってしまいます。
そうではなく、モノ・コトのありようは、因縁に依りてあり得ているということで、有るには有るけれども実体が有って存在しているわけではないということです。
それを理解して、因縁に依りては、当然に悟り・涅槃もあるものとして、その因縁に取り組むということになります。その悟り、涅槃へ至るための因縁をお示しなさられたのが釈尊であり、仏教であるのであります。
願い、期待するな、欲望を持つな、執着するなという単純なものではなく、願っても良いし、夢を持っても良いし、期待しても良いし、欲があり、感情・感覚もあり、執着してしまっても仕方がないものではあるが、全て、一切は実体の無い「空」であり、因縁、つまり、縁起として成り立っているのであるということを理解して、善い結果へ向けて、稀有で有り難い人としての生を活かして善い因縁に取り組みましょうというものになるのであります。
共に頑張りましょう。
川口英俊 合掌
嫌な気分になりにくくなる
言葉で表すなら、あなたの表現も間違いではないかもしれませんね。
ただ、人生において、妄想雑念にはまって嫌な気分になる時間が減り、平安に暮らせるなら、表面上の言葉にとらわれなくても良いのかもしれません。
質問者からのお礼
釋 悠水様 ご回答有り難うございます。滅諦、道諦、こちらも四諦を調べる際、合わせて読みました。八正道も含めて。神仏様に頼り、お応えしてくれたのか、今は心が落ち着いております。仏教とは関連がないと思いますが、気づきも幾つかありました。でも、仰るような、また歩いて行きます、とは、怖くて断言を出来ません。どれだけ歩いてきても失敗だった。何度も経験して、ならまた立ち上がれるさって、その言葉に、酷く悲しく苦しい涙が出ます。歯を食いしばって頑張る姿勢は、僕にとってはもう悲しい敗北失敗の前振り、暗示、そしてそのものなのです。その辛い想いを、もうしたくない。成功し続けたい。幸せに成り続けたい。それは怠けたいのではなく、ただ傷つきたくないんです。
願誉浄史様 ご回答有り難うございます。表面上に囚われない、ならば、仏教は何を伝えているのでしょう。
転落院様 ご回答有り難うございます。ゾウの話、耳にしたことあります。数人の盲人のその姿を見て、真実を知る王が笑うというやつですね。そして、確かに、僕は未だ少しを知って全てを知った気なのでしょう。だから、申し上げたとおり、あの厭世的な意見を持つが、本当に伝えたいことは何だ、と自分を信じていない部分もあります。今は神仏様などに頼り、心が落ち着いております。だからこれから、というお言葉に、頷くことも出来る筈、と言いたいのですが、でも、そのこれからという言葉に、悲観が色濃く取り憑いて、残っております。これからという言葉は、僕は怖いのです。また最初からやり直すのか、とか、これからとは例えば救われるまで何処までの距離を指すのだ、とか、これからだ、と歩いて、積み上げて、でもまた台無しに失敗する、とか、これからだよと言うけども内心呆れられ、あぁ、この男はなんて愚かしく弱いのだ、無様な、此処まで行くと哀れだ、と傷つけられるのが溜まらなく嫌で、など、その四文字に他人のような想いを抱くことが、難しいです。
川口 英俊様 ご回答有り難うございます。縁起因縁、因果のお話、此方も知る限りですが、存じております。それらが偶然重なり合ったところに刹那的に姿として浮かび上がったのが自分、という認識で居ます。しかし其処に僕は我執を持ってしまい、煩悩が生まれてしまい、四苦八苦、三つの毒を体感する。自分は空(諸法無我?)、と聞いて、自分や世界を遠く客観的に見て、全ては仰るような蜃気楼なのだと思えるときがあります。それに全ては移り行く。一つに留まることがないのだから、仕方ないと言うより、拘ることができないとも。ただ、だから? どうすれば救われるのでしょう。何を仏教は教えてくれているのでしょう。そう悩み、此処にネガティブなままで失礼しました、質問させて頂きました。教えて下さり、重ねて、お礼申し上げます。有り難うございます。
釋 悠水様 再度ご回答有り難うございます。お礼が遅くなって申し訳ありません。なんか、呆れられてしまいましたかね;
転落院様 再度ご回答有り難うございます。お礼が遅くなって申し訳ありません。これを書いている今、未だ心に不安があります。ただ、また一つ気づきがありました。それが、少しだけ仰ることと似ている部分もあります。これが、救ってくれるもの、正しいものだと信じたい。