病苦と今後の進退
私が小学校2年生のころ、目の病気にかかってしまいました。
それから今まで10年間の間、手術を繰り返し、キツイ薬を打ち、なんとか病気が悪化しないように生きてきました。
しかし、つい2ヶ月ほど前に右目が失明してしまいました。残った左目も状況は芳しくありません。
それまでは私が楽観的な性格だったこともあり、必要以上には気にしないようにしてきましたが、失明したことにより、やっと私の病気の深刻さに気づき、それからというもの、これからのことを悪く悪く考えてしまいます。
それから私は、高校に通うのをやめてしまいました。
それは高校を卒業し、大学を出て、就職したとしても、ひとたび目が悪化してしまえば、すべて水の泡になってしまうのではないか? と考えるようになってしまったからです。
しかし、もしこのまま学校に通うのを辞めたとしても、先に進めないのはわかってはいるのです。 先のこと考えすぎても仕方のないことだというのもわかってはいます。
しかし、わかってはいても、どうしようもない不安感が勝ってしまうのです。
家族は、辛いのなら辞めてもいい、これからのことは病気を少しでも良くしてから考えればいいとは言ってくれます。
けれど、その言葉に甘えても良いのか?もしこのままこの言葉に甘えたら自分はどうなってしまうのか。
もし高校を中退したことが知り合いにばれたのなら、みんなは僕を軽蔑するのではないかと思ってしまいます。
家族は僕のことをわかってくれても、祖母やいとこや親戚は、僕をどう思うのか?
そう考えると私は一歩先に進むことも、一歩後退することも、立ち止まることも出来ず、宙ぶらりんの状態が続いています。
こんなことは自分自身で決めるのが一番良いことはわかっています。しかし、どうにも足を地につける勇気がないのです。
私はどうすれば良いのでしょうか?
読みづらい文章ですみません。
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心の赴くままに。
今晩は。
ご質問読ませて頂きました。
長年にわたり、強い薬、手術の苦しみに堪えられながらの生活…タイトルにも書かれてございますが「病苦」、私の想像など到底及ばぬことなのだろうと感じます。お掛けする良いお言葉が見付からず、申し訳ございません…。
今後の進退についてですが、
高校を中退し治療に専念された場合
高校を卒業し就職された場合の二択という事になり貴方は今、どちらかの道へ一歩を踏み出さなければならない分岐点に立っていらっしゃる訳です。
私自身が思うに、
高校を中退すれば知人に軽蔑されてしまう、
卒業して就職しても病気が進行し全てが台無しになってしまう、その様なまだ見ぬ未来への不安に心奪われる事なく、その未来をあれこれ考えてしまう心の執着を解放し、貴方の直感の赴くままにご自身の道を進まれるべきでしょう。
重く考えず「どちらへ進もうと大差無いんだ」「道を間違ってたって構わない、今を大切に生きるさ!」位の軽いけれど、どっしりとした気持ちで選んだ道を歩んで下さい。その方が思い悩む事なく、スッキリとした気持ちで自分自身を保てるはずです。
又、親戚の方にどう思われようと気にされる必要など無いじゃないですか…。
貴方にとって何時までも一番の味方であるご家族の皆様が傍にいらっしゃるじゃないですか…。
そのご家族の皆様が「辛ければ、辞めたっていい」「病気を少しでもよくしてから、次の事を考えれば良い」と言って下さっているのであれば、その言葉に甘えてしまっても良いのではないでしょうか?
これからは「看脚下(かんきゃっか)」という禅語が示す様に、貴方が選ばれた道を一歩ずつ、脚元、自分自身の立ち位置、身の置き方を確認しながら進まれ、
病気を通されて今まで「当たり前」だと感じられていた自分の身体、身近な存在である家族に「有難う」の感謝の気持ちを持たれ、そこに幸せを感じつつ日々をお過ごし下さい。
ご病気、少しでもよき方向に向かわれる事を念じております。 隆介 合掌
決して一人ではありませんね。
私自身も、生まれつき小児麻痺を抱えて生きてきましたので、真田丸さんの気持ちも若干わかるように思います。そして、私自身も多くの人の支えの中で歩むことが出来ましたから、そのささやかな経験の中からお返事をさせていただきます。真田丸さんは、家族に十分受け止めてもらえているのですね。よかったですね。周囲の反応を気にする気持ちも想像できます。「家族がわかってくれるから十分」というくらいでは如何でしょう。軽蔑する人は、その程度の薄い縁だったと開き直ってもよいと思いますよ。
心理学者キューブラー=ロスは、死の受容の5段階として、第一「否認と孤立」/第二「怒り」/第三「取り引き」/第四「抑鬱」/第五「受容」 と述べています。このような段階を行きつ戻りつしながら、次第に自らの死を受容していくそうです。これは、人生で遭遇するその他の喪失体験(たとえば、社会的役割を失う=退職・退任、健康を失う=病気・障害・老化、人間関係を失う=死別・離婚、平和や安定を失う=事件・事故・災害など)を受容していく時にも、同じようなプロセスを経ることが多いようです。人間は喪失の体験をすぐに受け止めることは出来ないことがわかります。だから、「受容」に至らない時期に将来を先んじて悲観し、大きな決断をしない方がよいと思うのです。学生という立場が与えられている今は、医療・教育・福祉分野で様々なサポートが受けられるチャンスが多いのです。学校をやめてしまうと、社会的サポートを初めから自分で探して歩かなければならなくなり、その経済的・精神的負担は遙かに増大するでしょう。上記のような観点から、私は、退学という大きな決断を慌ててすることはお勧めしません。
また身近なところで、中途失明など様々なハンディーを抱えながら、社会生活を送っている方々との出会いの場はありませんか。さらに、その支援者にも出会って胸の内をぶつけてみてください。「一人じゃない」という心強さが生まれるでしょう。医療・教育・福祉分野での様々な施策も知ることが出来るでしょう。今悲観している就労についても、何かしらのアイデアが生まれるかもしれません。真田丸さんの今後を真剣に考えてくださる方は、きっといらっしゃると思います。 このハスノハへ勇気を持ってお声かけを頂き、有り難うございました。真田丸さんのこれからを、ハスノハが応援しています。ご縁に感謝!!合掌
質問者からのお礼
御返答ありがとうございます。
どちらの道を進むにせよ、お坊さん達の意見を参考に自分で答えを見つけたいと思います。
私には家族という心強い仲間がいるということ忘れずに、日々家族に感謝してこれからの日々を過ごしたいと思います。
また何かお坊さん方のお考えを聞かせてもらいたいときには、ここを利用するときがあると思いますが(出来ればない方が良いのかな?)その時には、またご指導(?)の方をよろしくお願いします。
本当にこの度はありがとうございました。