仏教について知りたいです
こんにちは。
以前こちらでお世話になった者です。その節は相談にのっていただき、ありがとうございました。
先日母の四十九日法要を終えたのですが、そこで二つの疑問が浮かびました。
①成仏とは何か
②お経の内容(現代語訳)は何か
法要で「お経は生きている人に向けてのもの」と伺い、以上のような疑問が湧いた次第です。
お経は亡くなった人が成仏できるように唱えるものだと思っていたので、大変驚きました。
疑問を調べてみたところ、「仏教は今を生きるための知恵」とありました。
亡くなった人は、遺族が"今"を生きることで成仏するのでしょうか。
また、「生きるための知恵=お経」なのでしょうか。母を亡くした寂しさと悲しみを乗り越え、前向きに生きていくために"生きるための知恵"を具体的に知りたいです。
無学で恥ずかしい限りなのですが、二つの疑問について教えていただけると嬉しいです。
よろしくお願いいたします。
※ちなみに宗派は日蓮宗です。葬儀や法要では南無妙法蓮華経を唱えました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ふじいろさん、お母様のご冥福をお祈り申し上げます。
日蓮宗ということ、特にその立場からお話させて頂きます。
成仏とはとありますが、返り点を入れると、仏成(ほとけなり)と読めます。実は元より仏様と同じ価値ある存在であるのが私たちであると、法華経には説かれています。
ただし、人と生まれてきた時には、そのことは忘れてしまっているのでこの世の誘惑に負け、自分自身の欲望にも負け、安穏に過ごすことができずにいます。でもそれはそれで多くのことを体験するには必要なことでもあるのですが、しかし、お題目をお唱えすることで自らの尊き魂が呼び呼ばれるとあります。
そしてお釈迦様は私たちに大切なことえお伝えたるためにこの世に誕生されたました。それは「ただ一つの目的、唯一つのなすべきこと」のためであり、私たちに仏様(悟りを得た)と同じ智慧を開かしめ、示し、悟らしめ、その道に入らしめるためです(一大事因縁といいます)。
お題目をお唱えするとは、この4つのことを祈ることで得られるとありますが、もちろん、ただ唱えればいいというものでなく、あくまで法華経を信じきるという思いが大切です。そのためには修行と学ぶことが大切であると日蓮聖人のお言葉にあります。
そしてお経は、当然ながら生きている人のためにというより真理が説かれたものであり、生きているとか死んでいるというのは、この世的な次元の解釈であり、本当は誰も死んでいないのです。ただ肉体が変化しているに過ぎず、ひたすら本来の目的(それが成仏なのです)のために、何度も人生を歩みながら、繰り返しながら、そして自分自身が尊き存在であることを体験しているのでしょう。
そのことが説かれているのが経典あり宇宙の真理が説かれていると、もちろん私も発展途上中ですから、すべてマスターしている訳ではありませんがそのように思います。
又、成仏の世界を表現すれば優しい心や、慈しみの心、自分も努力するけど人をも助けようと思う心、行動は、まさしく菩薩であり仏様の行為です。それが実行できるのが、この世であり人類です。
今までにそのような体験されているかもしれませんが、亡き方との関係も恨み、執着などマイナス要因がなければ感謝しかありません。又、そういう心を持った人の集まりを極楽、天国、浄土というのです。ゆえにすでに体験もしているのです。
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成仏とお経について
ふじいろさま
①成仏とは何か
成仏とは、「仏に成る」ということで、悟りを開き、仏陀・如来になることを申します。
亡くなられた方のことを「ほとけさん」と言ったり、また、亡くなられて浄土へ送った(引導・往生・往詣した)者を「成仏された」と言ったりすることがありますが、これは間違いであり、亡くなったから、浄土へ行ったから「成仏」できるというものではありません。
「成仏」するためには、悟りへといたる仏道を確かに歩み、智慧と福徳の修養が必須となります。
浄土へ赴いても、すぐ成仏できるわけではないということは注意しないといけません。
そして、追善供養というものは、亡くなられた方が悟りへの道を歩めますようにという一つのお手伝いとして行うものとなります。功徳(福徳)を回向して、善き道のり、旅路であるようにというものとなります。まあ、イメージとしては、その旅路が進みますようにとして路銀やお弁当、通行手形を送るといった感じであります。
②お経の内容(現代語訳)は何か
お経(仏典)には、大きく分けて了義と未了義として、真理から直接的に説かれてあるものと、真理から間接的に説かれてあるものがございます。
お釈迦様は、八万四千の教えをお説きになられました。
それは、善巧方便、対機説法と申しまして、その人それぞれの悩み苦しみに対して説かれたというものも含まれてあります。
ですから、未了義(方便として)の教えには、自分に合うもの、合わないものも当然に出てくるものとなります。
もちろん、共通の真理から説かれてある了義の教えであっても、ある一定まで修養を進めておかないと正しい理解が及ばないものもございます。
そして、それらは生きている者、亡くなった者であっても、一切衆生を救うための教えとなっております。ですから、亡くなった者にお経、教えを届けてあげる(回向)という側面は否定されないものとなります。
あるいは、読経することによる功徳を回向して届けるという面もあります。追善供養の一つ。
また、お経自体にあるお加持の力において、正しい道を両者に示す、仏道成就を祈願するというものもあります。陀羅尼や真言、念仏、題目もそういった面があります。
ご参考になりましたら。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
鈴木海祥
回答ありがとうございます。お礼が遅くなってしまい、申し訳ありません。
"成仏"の意味を今まで誤解しておりました。
亡くなった方がこの世への未練を断ち切り、健やかにあの世に向かうことを"成仏"だと思っていたので、「仏成り」は目から鱗です。成仏は、自分自身が尊い存在であることを認識することなのですね。
また、人の生死はそう認識するまでの過程(修行)である、ということでよろしいでしょうか。解釈が違っていたら申し訳ありません。
母を亡くした喪失感は、生死にこだわりすぎていたせいかもしれません。もちろん、大切な家族を失った悲しみはありますが「母は成仏するための修行を積んでいる最中であり、それは私も同じである」と考えると、悲しみが少し和らぎました。
私も母と一緒に修行をしている、という気持ちで日々をすごします。
あらためて、お忙しいなかお答えいただきありがとうございました。
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川口英俊様
お礼が遅くなり、申し訳ありません。回答、感謝いたします。
"成仏"に対して、ずっと誤解しておりました。成仏するためには智慧と福徳の修養が必須…肝に銘じます。
また、お釈迦様の教えは八万四千もあるとのこと。
そのすべてを理解するには遠い道のり(まさに修行)ですが、理解できるにせよできないにせよ、理解しようとする姿勢は持っていたいものです。今回のことを機会に、仏教を勉強してみようと思います。
毎日「お母さん、お母さん」と寂しさのあまりつぶやいてしまいますが、寂しくなったら心の中で読経をすることにします。それが母や私自身に対する救いと功徳になると信じて。
あらためて、お忙しいなか回答してくださり、ありがとうございました。
追記
鈴木海祥様
「様」が抜けておりました。
大変失礼いたしました。申し訳ありません。