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愚痴を止めたことで見えた本音

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有り難し有り難し 43

私はある時から愚痴を言うのを止めました。
強い決意や立派な理由があってそうしたわけではありません。
ただ「どうでもいい」と思うようになった。
時間が惜しいと思うようになった。
それだけです。

そのお蔭で、一人で自分と向き合う時間が増えました。

そんなある日、些細なことがきっかけで怒りの感情が爆発し、誰にともなく怒りの言葉が噴き出してきたのです。

私は何に、誰に怒っているのだろう?

そして、気が付きました。
それは自分への怒り、自分を罵る言葉だったのです。

日頃から抱えていた周囲への不満は、実は自分自身への苛立ちだったのです。
私が自分に許していないことを人が平然とやっていると、腹が立って仕方がなかったのです。どうして改めようとしないのか、どうしてそんな自分を許せるのかと。

「どうしてお前なんかが生きているんだ」
気が付いたら、そんな言葉を自分自身に突き付けていました。

あの時、逃げた自分。
あの時、ひどいことをした自分。
あの時、卑怯な態度をとった自分。
あの時、本心を貫けなかった自分。
あの時、何もしなかった自分。
そして、いつも自分に負け続けた自分。

私は自分が大嫌いで、でもそんな自分と生きていくしかなくて、
自分の思うようにならない自分を足蹴にしながら生きてきのだと思います。
昨日より今日、今日より明日、マシな自分でありたい。

でも、本当は許されたい、楽になりたい、救われたい。
それが私の本音なのだと思うのです。

どうすれば自分を許すことができるでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分を救うのは自分を超えた存在でしかない

ご相談拝読しました。

自分と向き合う中で、悩み苦しみの原因は他者や周囲の環境にあるのではなく自分自身にあることに気づいたのですね。

しかし、より良い自分でありたいと願いながらも、どうにもその自分を持て余し、振り回されてしまう。そして

>本当は許されたい、楽になりたい、救われたい。

という本音が見えてきたのでしょう。

さて、hasunohaの回答で「自分を認めてください」「自分を許してください」とお声がけすることは多々あります。でもよくよく考えるとそれってどういうことなのでしょうか。

それが結局は言葉遊び的なものであったり、観念の遊戯というか、要は自分で自分をこれでよしと思い込ませるものであるならば救われないのでしょう。

自分で自分を救うことはできません。仏教的には球主はあくまでも仏様でしょう。

その仏様はあなたを許すとは言わない、あなたを救うとおっしゃるのです。

私たちの苦しみの原因である煩悩を仏様はそれで良しとは言わない。それこそが苦しみの原因だとどこまでも厳しく事実を伝えてくれます。

しかし同時にその煩悩を障りとせず救うとおっしゃる仏様がいるのです。それが阿弥陀仏という仏様です。

救いに条件をつけるのが私たちの在り方ですが、阿弥陀仏の救いは無条件です。いつでも、どこでも、誰でも必ずあなたを救うとおっしゃります。その阿弥陀仏のはたらきに触れる時、私たちは煩悩の身の事実に頷き、この身このままで救われるのでしょう。

それは楽になるとか、スッキリするとか私たちがイメージする救いとは違うのかもしれない。

むしろモヤモヤに腹が据わるというか、このドロドロの煩悩の身を生きる自分の事実にいよいよ真正面が向き合っていけることなのかもしれません。

自分で自分を救うことのできない私だからこそ、私を救う教えを求めてやまないのが仏教徒の求道なのでしょう。

是非ご一緒にこの道を歩みませんか?

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有り難し
おきもち

個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

私が許します・・・!?

「お礼」ありがとうございます。

>心の働きにもっと正直になってもいいのですね。

はい。ゆるします^^

それが幸福せの道ではないかなと、僕は思っているんです。

学校で僕たちは○×で育ってきたけど、日常は○×だけではお互い息がつまります。

「いまのわたし」がどう感じてるか、それを感じながら、
ゆる〜い○を目指していきたい系僧侶です。

    ーーーーーーーーーー

人は誰でも、年をとると、こんな自分でしょうがないんだ。
自分のことはもういいかー。ってだんだんなっていくような気がします。

年はとりたくないもんですが、いいとこもあるかな。

さて、欠点をみて嫌いになってしまうというお悩みだと思います。
長所をみれたり、基準を下げられたらいいのでしょうけど、、、

どうしたら、それができるのでしょうか?

それは、自分を大事にすることでしょうか。

「くるしいなら、考え方がちょっと間違ってる。」
「うれしいってことは自分を大事にできているってことだ。」

あなたはどうしたら、うれしいんでしょうか?

それにしても日々、気づきが進んでいらっしゃるようで、なによりだと思いますよ。

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有り難し
おきもち

人生も階段ばかりじゃしんどいです。 たまには踊り場で一緒に泣きませんか? きっと新たな力が湧いてきます。 とても辛いとき、無言でもいいので連絡ください。 お釈迦様は、 この世は思い通りにならないのが ベースなんだよと言われたそうです。   「苦しい時は   一緒にいよう   一緒に考えよう   みんな一緒だよ」   「しゃもん」はお坊さんのことです。 よろしくお願いいたします。
当方なかなか、先の予定が立ちません。 お電話をいただいた時にお堂にいたらお話しさせてもらっております。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「救いに条件をつけるのが私たちの在り方ですが、阿弥陀仏の救いは無条件です。
いつでも、どこでも、誰でも必ずあなたを救うとおっしゃります。」

確かに、そう簡単に自分で自分を救うことができたら、今に至っていないと思いました。
次にお寺に行く際は、こんな私でも救われる道がある、それを見守ってくださる仏様がおられる、
ということを思って手を合わせてみようと思います。

>「くるしいなら、考え方がちょっと間違ってる。」
「うれしいってことは自分を大事にできているってことだ。」

くるしい、うれしい、という心の働きにもっと正直になってもいいのですね。
無意識に「許せない」と思っていた時には、そういった心の働きにも上から蓋をしていたように思います。
その気持ちをていねいに汲み取ってあげることで、少しずづ自分を許せるようになるかもしれないと思いました。

心が楽になった気がします。
ありがとうございました。

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