人は死んでも見ていてくれるのでしょうか
人は死んだら無になるのでしょうか。仏様になって私たちを見てくれてはいないのでしょうか。
幼い頃から大好きで大切だった祖母が最近、亡くなりました。私の家には仏壇が無いため(親戚の家にあります)、祖母の写真を置き、その前にお供え物をしています。祖母は亡くなるまでの半年間は食べ物や水を一切口にすることができませんでした(病院から飲食を禁じられており、栄養はカテーテルで摂っていました)。しかし本人はずっと「食べたい」「水が飲みたい」と言っていたのにそれが叶うことなく亡くなってしまったため、あまりにも哀れで、せめて天国ではたくさん食べてほしいと思い、お供え物をたくさんしています。けれど、ふと思うんです。こんなことをして、祖母は食べてくれているのだろうかと。人は死んだら仏だのあの世だの霊だのそんなものはなく、完全に無になるだけなのではないかと。だとすれば、毎日あれこれと飲み物や食べ物をお供えしているのは、単なる私の自己満足に過ぎません。それを考えると、虚しくなります。仏もあの世もなく無になっているのなら、お供え物もお墓参りも完全に意味の無い行為と言えます。ネットで色々と検索してみたら、霊感のある人は「ちゃんと食べてくれている」という意見を述べていたのですが、私には霊感がないので何も感じ取ることができません。
それに、祖母は20年以上前に亡くなった祖父のお墓参りをずっとほぼ毎日やってきましたが、祖父が見てくれていたようにも思えないのです。なぜなら、祖母は長年、体の不調に苦しみ続けていましたし、長文になるので割愛しますが最期の時もあまりにも惨めなものでした。よく「故人を思ってお墓などを大切にすると幸せになれる」ということを聞きますが、祖母は最後まで哀れでした。このことを考えると、やっぱり人は死んだら無になるだけで、それ以上は存在しない、つまり私たちを見てくれてはいないのかなと思えてしまいます。
難しい質問かとは思いますが、回答、宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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すべて伝わっています。
青空さんのご心痛お察し申し上げます。
又、おばあ様のご冥福をお祈り申し上げます。
大切なおばあ様が亡くなられ淋しい限りですね。しかも、亡くなられる前には水も飲めない状況であったこと胸が締め付けられることと思います。
でも、今は、青空さんがお水や食べ物をお供えになっておられること、とてもおばあ様は喜んでいます。もちろん、肉体はありませんから、水が減る訳でも食べ物が無くなる訳でもありませんが、次元の異なる世界でそれは伝わっています。
そして、死はすべてが無になる訳ではありません。元々、人間は魂、意識、肉体の三つから成り立っているので、死は、単なる肉体の変化(消滅)でしかなく、魂、意識(心)は継続中です。ゆえにちゃんと青空さんのすべてを分かっています。と同時に考えも伝わっていますから、今は肉体の苦しみからどんどんと解放されていますから、良き思いだけをお伝えください。それは感謝しかありません。
もちろんお供えをすることもこの世的には大切なことです。
又、おじい様のことをおばあ様が一所懸命にご供養していたのに守っていないとか、晩年苦しんでいたというのは、あくまで青空さんの解釈の都合であります。
ご供養されていたことはちゃんと伝わっていますし、おばあ様のお徳を積まれていました。しかし、晩年のおばあ様のことはあくまでおばあ様の人生のことなのです。
いかなる人であろうとも、神仏はもちろんのことご先祖様や亡き方が、その人の人生を守っていることはあれど操作することは、神様仏様でも手出ししません。そんなことをしたら、自分で創造する未来がなくなるからです。
少し難しいお話になってしまいますので、ここでは致しませんが、ともあれ、今でもおじい様も、おばあ様も青空さんが慕うように見守っておられますからご心配なく。そしてすべて伝わっています。それが証明されるのは、青空さんがおばあ様と同じ世界(次元)に行かれたら分かります。それまではこの世を大いに楽しんでください。それがおばあ様への最大の供養であり感謝です。
功徳を供える
青空さま
人は死んだら無になるわけではありません。
特に、輪廻に係わる微細な意識、その意識における業(現世、過去世からの行いの集積)の縁に従って、次の存在として存続していくことになります。
人間としての身体によるところとなる苦痛は、もはやないかもしれませんが、人として輪廻転生をして存続していれば、同じような人間としての苦痛は伴うところにはなってしまうでしょう・・
できれば、極楽などを代表する浄土世界での存在として、仏道を歩めるようになっているのが最も望ましいところとなります。
そのように迷い苦しみが少ない存在として、どうか確かなる仏道を歩めるようにとして調えるのが、葬儀、追善などの供養というものとなります。
最も善い供養は、功徳を届けることです。
功徳とは、善い行いの積み重ねです。
この功徳(福徳の力)は、悟りへと至るための燃料、ガソリンの一つとなります。
何でも良いので、誰か、何かの安心になるような行いをすること、それが功徳となります。人だけでなく、他の生き物でも同様です。
そんな行いを届けてあげられるように少し意識してみて下さい。
まあ、善いことをしたのを仏壇や墓前で報告してあげるのです。
そうするとその功徳は亡くなられた方に届き、お互いにより善い道を歩むための糧とすることができるでしょう。
大事なのは「善いことをする」ことです。それが一番の供養になるということです。モノやカタチを供えるよりも、功徳を供えたいということです。
川口英俊 合掌
仏さまに成って、見守ってくれている。
あなたが祖母さんを看ているのです
青空さん、お祖母様が示寂されてお気の毒様です。あなたも健康に気をつけてご自愛ください。
さて、お祖母様があなたを見守っているかどうかは私はわかりません。仏教の葬儀の儀式はお釈迦様の元に一緒に暮らすためのものです。仏になったことは間違い無いと思います。いくらお供えしても食べることはありませんよ。敢えて言えば香りや湯気を食べているかもしれません。食べ物をお供えしたら香りや湯気は天に上りますよね。そしていつの間にか香りや湯気が無くなる。固体はお下がりとしてあなた方家族で頂いて下さい。
仏様が生かされるのはあなたが看ているからです。だから、祖母様はあなたを見守ってるのではありませんよ。あなたが祖母様を見守っているのですよ。あなたの人生はあなたのものです。仏様によって左右されるものではありませんよ。仏様はあなた自身なのです。故人様に優しく出来るのであれば、生きとし生けるものへその優しさを向けてください。それが祖母様の一番の供養になります。祖母様も安心し、あなたの気持ちも安らぐことでしょう。
あなたが仏様になることで自然と祖母様が真の仏様にみえてくるでしょう。
質問者からのお礼
お礼が大変遅くなりまして申し訳ありません。お供え物などただの自己満足なのではないかと当初は虚しくなることもありましたが、やはり祖父母に届いていると信じて毎日お水と食べ物をお供えしています。祖父母が好きだったものを考えながらお供えすると、何となく対話できているような感じもします。皆様、この度は回答をくださりましてありがとうございました。