hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

お願いする事は我欲?

回答数回答 2
有り難し有り難し 12

『苦しい時の神頼み』という言葉がありますが、自分の願望や望みを神仏にお願いするのは 我欲でしょうか?
『お金が欲しい』とか『結婚したい』という願いは 欲望丸出し…という事は 分かります。
そこに ちゃんとした理由が あるならば 我欲には ならないとは 思いますが、
突き詰めていけば 全ての頼み事やお願いは『神仏に何とかしてもらおう』っていう 甘えや我欲が あるように思えてなりません。
神仏は 人の願いの根底にある【我欲】や【甘え】を どのように 御覧になっているのでしょうか?

そう考えると おすがりする事さえ ためらってしまいます。

神仏の教えに従って 無欲で生きる…という事は 神仏に頼らず 自力で 頑張っていく、って事でしょうか?

お坊さまの お考えを お聞かせ下さい。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

とっくに御存知でしょう

 苦しい時の神頼み…何でもよいからすがりたい、みたいな時は誰にでもありますね。やはり私たちには自我があり、それに伴って煩悩がありますから。煩悩を滅したところに悟りがありますが、悟りを得たのはお釈迦様くらいでしょうか。すがってどうにかなるものではないのにすがっている自分、という位置がわかっていたら大丈夫だと思います。私は浄土宗僧侶です。法然上人が、すがって何とかなるのなら、「死にたくない」と願ったら死ぬ人はいない。そんなことは願ってもどうしようもないことだ、と言われました。それでも何かしらすがりたいという時はありますね。欲望、我執。そんな時私は「阿弥陀さま、よりよき方向にお導き下さい」とお願いします。どうしようもないような時は「よき方向に」とおまかせします。神仏は私たちがそのような存在であることのとっくに御存知であり、また最大の理解者だと思います。

{{count}}
有り難し
おきもち

九州に住んでいます。 長い間、教育職をしていましたが、発心して浄土宗の僧...
このお坊さんを応援する

「私の場合は」ですが・・・・・・

こんにちは。初めまして。

真宗大谷派の僧侶です。
ご存知かも知れませんが、浄土真宗は「神祇不拝」として、神様などを拝まないといいます。占いなどに一喜一憂して大事なことを見落としてしまわないように、という意味だと解釈してくださったらいいと思います。

仏教を一括りにするのは難しいですが、ザックリと言います。仏教は、苦しみの元は「本当のこと」がわかっていないからだ、と考えます。「本当のこと」がわからないのは、人間には煩悩があるからです。その煩悩を振り払うために修行するのですが、煩悩は強烈なので人間の力ではとても大変です。でも、修行を続ける人はたくさんいます。尊いことです。

浄土真宗の門徒は、その修行の困難さ、いたらない私を自覚して、煩悩を振り払うのでなく、煩悩を背負ったまま暮らしていく道を選んでいます。でも、「本当のこと」がわからることを諦めたのでなく、「本当のこと」がわかるために阿弥陀如来にたよるしなかないと考えます。よって、他の神様にお願いする「必要がない」ということになります。

神様仏様にお願いごとをするのは、悪いこととは思いません。私は、前述のような理由でしないだけです。因みに、私は阿弥陀如来にもお願いをしたりしません。必要がないからです。ただ「ありがとうございます」と手を合わせます。

これはあくまで「私が選んだ道」であって、他の人も納得するとは思わないです。少し極端に感じるかもしれませんが、参考にしていただけると嬉しいです。

{{count}}
有り難し
おきもち

福祉施設に駐在し、医療・福祉専門職と協働する坊さんです。 ●真宗大谷...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

三浦紀夫様

ご回答 有難うございました。
参考にさせて頂きます。

薫誉至誓様
ご回答 有難うございます。
【神仏は 私たちな最大の理解者】という言葉に 気が晴れた思いです。
あれこれ考えず、素直に 礼節をもって
神仏に おすがりしようかと 思います。
有難うございました。

「煩悩」問答一覧

「足るを知る」と「向上心」のバランス

明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。   *   「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。   ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの   ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです   ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました   ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい   ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある    (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。?   少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。

有り難し有り難し 63
回答数回答 4

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ