お願いする事は我欲?
『苦しい時の神頼み』という言葉がありますが、自分の願望や望みを神仏にお願いするのは 我欲でしょうか?
『お金が欲しい』とか『結婚したい』という願いは 欲望丸出し…という事は 分かります。
そこに ちゃんとした理由が あるならば 我欲には ならないとは 思いますが、
突き詰めていけば 全ての頼み事やお願いは『神仏に何とかしてもらおう』っていう 甘えや我欲が あるように思えてなりません。
神仏は 人の願いの根底にある【我欲】や【甘え】を どのように 御覧になっているのでしょうか?
そう考えると おすがりする事さえ ためらってしまいます。
神仏の教えに従って 無欲で生きる…という事は 神仏に頼らず 自力で 頑張っていく、って事でしょうか?
お坊さまの お考えを お聞かせ下さい。
警備員を15年以上やっております。 仏教のみならず、宗教や古の教えなどに興味があります。 お調子者ではありますが宜しくお願い致します。
友達が多いはずなのに ふと孤独を感じる
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とっくに御存知でしょう
苦しい時の神頼み…何でもよいからすがりたい、みたいな時は誰にでもありますね。やはり私たちには自我があり、それに伴って煩悩がありますから。煩悩を滅したところに悟りがありますが、悟りを得たのはお釈迦様くらいでしょうか。すがってどうにかなるものではないのにすがっている自分、という位置がわかっていたら大丈夫だと思います。私は浄土宗僧侶です。法然上人が、すがって何とかなるのなら、「死にたくない」と願ったら死ぬ人はいない。そんなことは願ってもどうしようもないことだ、と言われました。それでも何かしらすがりたいという時はありますね。欲望、我執。そんな時私は「阿弥陀さま、よりよき方向にお導き下さい」とお願いします。どうしようもないような時は「よき方向に」とおまかせします。神仏は私たちがそのような存在であることのとっくに御存知であり、また最大の理解者だと思います。
「私の場合は」ですが・・・・・・
こんにちは。初めまして。
真宗大谷派の僧侶です。
ご存知かも知れませんが、浄土真宗は「神祇不拝」として、神様などを拝まないといいます。占いなどに一喜一憂して大事なことを見落としてしまわないように、という意味だと解釈してくださったらいいと思います。
仏教を一括りにするのは難しいですが、ザックリと言います。仏教は、苦しみの元は「本当のこと」がわかっていないからだ、と考えます。「本当のこと」がわからないのは、人間には煩悩があるからです。その煩悩を振り払うために修行するのですが、煩悩は強烈なので人間の力ではとても大変です。でも、修行を続ける人はたくさんいます。尊いことです。
浄土真宗の門徒は、その修行の困難さ、いたらない私を自覚して、煩悩を振り払うのでなく、煩悩を背負ったまま暮らしていく道を選んでいます。でも、「本当のこと」がわからることを諦めたのでなく、「本当のこと」がわかるために阿弥陀如来にたよるしなかないと考えます。よって、他の神様にお願いする「必要がない」ということになります。
神様仏様にお願いごとをするのは、悪いこととは思いません。私は、前述のような理由でしないだけです。因みに、私は阿弥陀如来にもお願いをしたりしません。必要がないからです。ただ「ありがとうございます」と手を合わせます。
これはあくまで「私が選んだ道」であって、他の人も納得するとは思わないです。少し極端に感じるかもしれませんが、参考にしていただけると嬉しいです。
質問者からのお礼
三浦紀夫様
ご回答 有難うございました。
参考にさせて頂きます。
薫誉至誓様
ご回答 有難うございます。
【神仏は 私たちな最大の理解者】という言葉に 気が晴れた思いです。
あれこれ考えず、素直に 礼節をもって
神仏に おすがりしようかと 思います。
有難うございました。