大事な人を二人も失くしました
初めまして。長らく辛い日々が続いています。一年半ほど前に片親を亡くし、その後、彼女(婚約者)に別れを告げられました。
その後、ボロボロの心で何かに惹かれるように巡礼に出かけ霊場各地を巡りました。自分の未熟さに気付くとともに大切な人を失くす前から平凡な事が至極の幸せであると思いながら過ごしてきたにも関わらず、それすらも理解し切れていなかったのではないかと思い知りました。
巡礼の途中、京都で事情を知った尼さんから、「辛いことがあっても試されてると思ってしっかり生きて行けば、必ず仏さんは見てくれている」という言葉が心の支えとなっています。
一時は吹っ切れたと思っていましたが、やはり辛いという気持ちに変わりはありません。親を亡くし、事後処理に追われ半年ほどのちに婚約者は僕の元を去りました。恐らく、色々なことにいっぱいいっぱいになっている僕が頼りなく思えたのでしょう。
周りの友人や、同年代の人が結婚したり街でカップル等を見かけると胸をえぐられるように辛いです。
また、亡くなった母に対しても子供として何も恩返しできず、これからもっとしてあげられるはずだったのにと申し訳なさと、なぜ救ってあげられなかったのかという気持ちでいっぱいです。
正直なところ、なぜ周りの人は物事がトントンすすんでいくのになぜ自分は思わぬところでつまずいてしまうのかと辛くなります。
しかし、最後はどこかで必ず自分にも幸せが訪れると信じで日々過ごしております。こんな僕にこれから日々を過ごして行く上でのアドバイスをいただけないでしょうか。よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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過去と、今と、未来と
vinceroさま、はじめまして。なごみ庵の浦上哲也と申します。
ご質問を読ませて頂き、私も胸が詰まるような思いがいたしました。
お母さまを亡くし、婚約者とも悲しい別れをされたのですね。
人にとって、親は自分の過去、配偶者は自分の今、子どもは自分の未来を意味するのだそうです。vinceroさんは、過去と、今と、もしかしたら婚約者との間に出来ていたかもしれない未来を、短い間に失ったのです。
そんなvinceroさんが嘆き悲しんでいるのを、誰が責められましょうか。大いに悲しむべきです。涙を流し、泣き叫んでこそ、立ち直る力が湧き出てくるのだと私は思います。
母を失うのは、男性にとっても女性にとっても重大な事です。私は「死の体験旅行」というワークショップを主催していますが、このWSに参加した方は自分の最も大切なものを見出します。そしてそれは、圧倒的に「母」が多いのです。
vinceroさんならずとも、自分が生まれてから母親が亡くなるまで、母親が存在しないということは有り得ない事態でした。ですから誰にとっても異常事態なのです。だから悲しんでいいのです。
そして愛する人を失ったのですよね。これも辛いことです。相手が生きてこの世に存在するだけに、もしかすると母を失ったことより辛いかもしれません。
大きな2つの悲しみを背負って、よく耐えていらっしゃると思います。もし自分だったら耐えられるかどうか、自信がありません。
そしてよくぞhasunohaを見つけ、その辛いお気持ちを打ち明けて下さいました。vinceroさんのお気持ちが回復するには、まだまだ時間がかかると思います。辛い時には、どうぞhasunohaでも直接でも、そのお気持ちを打ち明けて下さい。何も良いアドバイスなど出来ない私ですが、そのお気持ちをお聴きすることはできます。
最後に…私もvinceroさんに幸せが訪れるよう、心から念じております。
命が尊いのなら、死もまた尊い。
vinceroさん、はじめまして。
長谷川哲真ともうします。
お母様の死を迎え、心が不安定になってらっしゃる様子ですね。
母親という、自分の人格形成に最も重要な存在が、
死という変化を迎えたのだから、当然の事と思います。
母親は、子の人格の一部を担っています。
その事は、子どもが友達と喧嘩したとき、
「お母さんに言いつけてやる!」と言うのに、よく現れています。
子にとって、母は内なる存在です。
ところで、あえて「死という変化」という言葉を使いました。
人は必ず死を迎えます。
しかし、内なる存在である母は、消えることはありません。
お母さんは、たとえ亡くなっても、お母さん。
私は、たとえお母さんが亡くなっても、お母さんの子です。
その母が死を迎えたとき、内なる母がどの様に変化するかが
その後の人生を大きく左右します。
死には、幸福も不幸もありません。
生まれた者に平等に訪れるものです。
しかし、死をどう受け止めるかは、人それぞれです。
世間では「命は尊い」と言われます。
命の中身は、生・老・病・死です。
命が尊いのならば、
生も、老も、病も、
死もまた尊いのでは無いでしょうか。
その尊い死とは、仏様になるという死です。
仏となって、あなたの仕合わせを願い生きる力をもたらす存在になるのです。
「死」の事を「成仏」という言うことがありますが、
その裏には、亡き方を尊く思い、
その尊い方に支えられて生きてゆくという意味が隠されています。
死を尊く受け止める事が出来ると、命そのものを尊く受け止める事が出来ます。
vinceroさんが、vinceroさんの命を尊く思うのです。
その思いは、元は、お母様がvinceroさんの事を尊く思う事から始っています。
死は亡き方との関係を大きく変えますが、
心の中の対話が無くなるわけではありません。
是非、vinceroさんの内なるお母様を尊く思い、
そのお母様に、尊ばれる人生を送られて下さい。
合掌
空と縁起
vincero様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「愛別離苦」・・最近は下記問いにて扱わせて頂きました。
問い「父にどう言うべきか迷っています。」
http://hasunoha.jp/questions/426
愛別離苦のみならず、生・老・病・死、怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦と・・私たちには様々な苦しみがあります・・
仏教では、これらの苦しみの根源として、「実体へのとらわれ」を一つの大きな問題として考えることとなります。
この世におけるあらゆるモノ・コトにおいては、それそのものとしての自体・実体・自性において成り立っているものは何らとしてありません。このことを仏教的には「空」と申します。
ところが、私たちは「無明」という根本的な無知のために、そのことが分からずに、実体へのとらわれ、執着が生じてしまい、それが多くの悩み煩い(煩悩)のもととなってしまいます。
そして、煩悩による行為が悪業となり、その悪業によって、この迷い苦しみの輪廻をいつまでも彷徨い続けてしまうことになります。
そのため、その根本的な問題としてある「無明」を対治していくことが仏道において求められるものとなります。
と申しましても難しいのも確かです・・
そこで、最近では「縁」ということについて、今一度しっかりと改めて考えて頂くことをお勧めさせて頂いております。
あらゆるモノ・コトは、実体が無いと申しましても、何も無いということではありません。確かにモノ・コトは有ります。有りますが、そのありようは「縁起」として、ということとなります。そして、無数の「縁」を通して、更に様々に留まることなく変化していくものであります。
この「縁」を正しく理解していくことで、現実のモノ・コトのありようを真正面から捉えることができるようになれば、死や愛別離苦の現実も受け入れられつつ、ではいかなる「縁」を実際に調えていければ良いのかということも少しずつ分かってくるのではないかと存じております。
「幸せ」につきましては下記の拙回答にて扱わせて頂いておりますので、どうかご参照下さいませ。
問い「生きる目的が見つからず、就職するのが憂鬱です」
http://hasunoha.jp/questions/508
vincero様のお幸せを祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
浦上様
ありがとうございます。今日は母の日ですが、ラジオで亡き母の思い出というテーマでトークが交わされていました。マザコンという批判的な表現もありますが、誰にとっても母親は大きな存在ですね。前向きな気持ちで進んで行きたいと思います。
長谷川様
今でも母が亡くなったことが夢のように思え現実ではないように思えることもありますが、心の中の母を大切に母に尊ばれるような生き方をして行きたいと思います。
川口様
愛別離苦という言葉を何年か前にテレビで耳にして「それは、大切な人との別れはつらいよな」というような漠然とした感じで分かったように思っていましたが、母が亡くなり切実に実感したのがこの言葉でした。実感するまでは分からないような感覚で、分かったようなつもりになっていたけれどももう少し深く考えれていれば母にもう少し孝行して上げられたのではないかと後悔しております。これから、良い縁を築けるように精進して行きたいと思います。