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母親の言葉を聞き流したいです

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私は30代半ばで母親は70過ぎです。

私の母親は、とにかく卑屈で後ろ向きな言葉ばかり口にします。些細なことですら、全てが批判的な言葉になります。

その話を聞くのが苦痛でなりません。
聞きたくないので距離をおいて接していますが、話す機会があると絶対にネガティブ発言をします。

いちいち反応する自分も面倒くさいです。
受け流すか肯定的に捉えて返答をしますが、母のネガティブ発言は止まることはありません。

もう事務的な会話以外、話したくありません。はっきり言って聞きたくないのです。

母は自分の人生への後悔や怒りが根底にあり(許せないことがありすぎて、癒されてないそうです)、卑屈になる背景は分かる気はします。

ですが、私としても母親に楽しく生きてほしいと思ってしまいます。愚痴を吐くのは人間ですから仕方ないですが、たまには笑っていてほしいと思う期待があるのだと思います。

嫌な話をスルーするにはどうしたらよいのでしょうか。心の距離がほしいです。

そして、どうやったら母が笑えますか。
ネガティブ発言ばかりでなくなりますか。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ほとけのマトリックス・イナバウアー

言葉というものは実はその言葉に過剰に意味を添えている「人」がいます。
私は人権分野仕事をしていた時にいわゆる「言葉狩り」というものがありました。
あの言葉は言っちゃいけない。あの言葉はアウトとか。今も世間でもある勢力からターゲットにされる人をおとしめるために言葉一つで悪者にされる時代です。政治においては本質はいいがかりとおとしめ。別にその言葉で傷つかない人もいる以上は、その言葉自体が害があるのではなく、それを悪い意味で受け止められた時の脳内作用が害となっているのが本質です。
ここが大事なポイントです。
悪い言葉をキャッチしている際に、耳はその言語を聞いた、その言葉は他の人には害はない。なぜか私にだけダメージになるのは「なぜ」でしょう?
どうやら、そこに何らかの作用があるものです。
それは母と子供の関係ということもありますが実は…!(/・ω・)/
私という頭の私意識、私マインド、私ルール、わたくし化、私ナイズする意識。マイルールなのです。他の人にとって傷つかないのに自分だけが傷ついてしまうということはやはりそこにマイルールがどことなーくあるのです。まずはそのマイルールを取り払うことです。
こうでなくちゃいや、母ならこうあるべき、人としてもっとこうあってほしい、高い人間性を持ってほしい、できればそうありたいもんですが、おかーちゃんはおかーちゃんで昭和ど真ん中で育ったにっかつ世代、イシハラ軍団、ミソラヒバリ、ハシユキオ全盛期のTHE昭和マインドの老古仏にあらせられまする。
お母さまはお母さまで言いたいことを言っているだけと思いましょう。あなたに言っているんじゃァなくて、あなたが目の前にいて思ったことをポンと口にしちゃうのです。昭和世代における「会話」というものはわが家もそうですがおおよそキャッチボールではなくあなたはキャッチャーオンリーです。会話のキャッチボールになりません。受け止めオンリー。ですが、そのボールが暴投。デッドボール。
さて思い出してみましょう。なぜ、言葉のボールが当たるのか。
そうです。そこに「過剰なわたし」という意識が働いていたのです。
次回お母さまとお話する際には、言葉が発せられた時、荒川静香選手かマトリックスばりのイナバウアーでかわしましょう。私に向けられた悪意ではないと悟れば無害な会話になりましょう。これ、親子の会話にとって結構大事なことです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

言葉がり、肝に銘じます。
ありがとうございました。

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