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お金の使い方について

回答数回答 1
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こんにちは。
私はきっと恋愛依存症です。

一人暮らしをして、寂しくてホストに通っています。
いくらお金があっても足りないし、私だけを見て欲しいって余計辛くなる時もあれば、お金の関係だって切なくなる時もあります。

そのお金を貯金に回したいし、ホストに行って辛い目にあうこともありました。
ホストと関係が悪くなって切れたこともあります。

でも寂しいし、友達もいないし、話を聞いて欲しいからホストに行ってしまうのです。
もちろん楽しいこともありますが、どうしてもお金の関係だ。私だけじゃないんだってチラついてしまうのです。

どうすればいいでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

こころの顔面偏差値高めの店舗に支援活動を✨

みかりん姫、ご来店ありがとうございます。
数多く存在するホストクラブの中で当店を選んで頂きありがとうございます。
(´-ω-`)ホストクラブhasunohaのすみっコぐらし、ハスの葉の端のアブラ虫、無賃バイトリーダーのTANGE・ザ・トイレ掃除と申します。名刺はまだありません💦先ほど御指名頂いた最高幹部の聖★夜さん只今、常連のお客さまについておりますので、私がつなぎでお隣失礼いたします。
あ、当店の新システムご存じでしょうか?
ワンセット50分完全無料。wi-fi環境をお持ちであれば無制限入店(リンク)可能。ドリンクはホームクーラーボックス制飲み放題。あ、自宅冷蔵庫のことです。
ただ今コロナで店内、会話禁止でして。(禁止かい)
ソーシャルディスタンス厳守でネット経由の文字会話で千文字限定のみです。(笑)
さて、姫。👠
結論先に申し上げます。ホストクラブに通うよりはホストを飼う道を選ぶべきです。宝くじを買うより売り場、運営者になる方がもっと利益は多いです。パチンコもスロットもUFOキャッチャーも宝くじも機械で確率や設定を変えられることを知らない人はどんどんそれにつぎ込んでしまうトリックと同じです。ですが姫。ホストを飼うのは基本半グレ・反社系😎おっかない💀おじさんオーナー限定ですので無理です。ホストさんも実は飼われている可哀そうな一種の芸人さんという図式なのです。世の中は「オンデマンド」と申しますように客の需要・要求に応じたビジネスが数多く存在しております。ですが、逆転の発想を用いればみかりん姫を必要としている世界もあるのでは?もちろん夜の世界ではありません。さんざんお金をホストに費やしても益なしでした。どうか、そのお金で誰かが笑顔になれる活動に投資された方がみかりん様も損した気持ちにならず、みかりん様の心の徳や世の為になります。いっそのこと、この世のすべてをホストクラブと脳内変換されてみてはいかがでしょうか?私のように顔面偏差値が低くても、世には心の顔面偏差値✨が突き抜けているホストたちが在籍する店舗は多数存在します。仏教寺院とは心の女子力を高めて精神クオリティの最高峰を目指すホストクラブ「OTERA」なのです。あなたがお金を取られて悲しむ顔を見るよりも、みんなが笑顔になる活動に時間や力を注いでいるホスト=僧侶もいることをお忘れなく。✨お金?任意です。(笑)

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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