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名を知らぬ友人と死後会えますか

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こんにちは。

インターネット上でとても仲良くしていた友人が自殺を仄めかすメッセージを残して姿を消してしまいました。「所詮ネット上でのメッセージ」と思われるかもしれませんが、普段明るく、とても強い人だったので冗談とは思えず、認めたくないものの旅立ってしまったのかもしれないという形で受け入れようという思いが日に日に増していきます。

私の想像も付かないような苦しみを抱えて、誰にも気付かれない場所で悲しみと苦しみの中孤独に旅立ってしまったかもしれない彼が仏様によって救われる日は来るのでしょうか。
そして、私がいつの日か旅立った時には、顔も名前も知らないという余りにも希薄な繋がりしか無い彼と再び会う事は出来るのでしょうか。

会えるのなら後を追うという訳ではありません。

私はこの世に受けた生を全うし、彼と再び会った時に彼の抱えていた悩み、悲しみ、苦しみを受け止めて、再び、そして永遠に友達となれるような人間になれたらいいなと思います。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

その人も善導し、あなたの心も善導し心のモヤモヤも善導すべし。

そのお優しい気持ちを大切にしてください。
できたら、その心をもっと高めて来世や死後の世界の理想を願うよりもこの生ある今の人生において、その人も喜ぶような生き方をあなたの今の今日の、この人生において実現させることであなたもその人もこれから出会う人もみんなが笑顔になれるでしょう。お釈迦さまや仏の教えという最高の人生の教科書を学ばれた人たち、祖師たちとはそういう生き方をされた人です。
人は縁のある人がみな私たちの心の中に宿るものです。
そのお会いしたことのない人であっても、その人に対する想念を思い、描くのはあなたの意識です。
ひょっとしたら生きているかもしれません。
こうなのではないか。
こうなんじゃないか。
それを思うのも私たちの脳であり、心の作用です。
そのもやもやを羊にたとえるならば、その羊がとてもにこやかで元気になるような、青空のように曇りの無いような心に善導することが私はあなたも元気になれて、前向きな人生になれる方法だと思います。
枯れそうな花を「枯れそうだなぁ」と思ったり、枯れたらあの世で会おうな、と思うよりは(# ゚Д゚)水をあげて!というのが私の勧める生き方です。
人間はちょっと切ないことがあると脳裏に浮かぶ脳内ファンタジーマイワールド王国のお城の引きこもり部屋であらぬ妄想を展開させてしまうものです。(本人談)
それよりも、王様。現実の枯れそうな花を今すぐ元気にさせることです。王様、それよりも王様自身が元気になられてこの世に民衆を笑顔にさせることこそ、王様の天から与えられたる使命でございますぞ、とあなたを善導する天才軍師や大臣の声にも耳を傾けてみましょう。
人間は最高に安らかで幸せではないなら、それはまだまだ不完全、未完成と見極める必要があります。なんだかスッキリしない、もやもやが晴れないなら、その視界の悪さを無くそうと志を持つことです。遠く、いつとも知れず、答えも根拠もないことに身を委ねるよりは、あなたの呼吸はあなた専用、あなたの為だけの呼吸。あなたの心もあなたをさらにクオリティを高めるために装備された心です。その心の運転はあなた次第ですから、その出会いも学びとしてさらに自身が心底納得ができる生き方へ自分自身をよりよく導いてみてください。私はこうやってみるといいよと申し上げましたが、それを今からやるかやらないかはあなた次第です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

私は会えると思っていますし信じています。

何の証明も出来ない事柄ですし
阿弥陀経の「俱会一処」という教えを
信じたいだけかもしれません。

でも信じると
故人がそばに居てくれている気がします。

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おきもち

 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

憶念

おはようございます。
喪失感と悲しみの心中お察しいたします。

とはいえ、僧侶の視点を申し上げると、
姿がみれなくなったからといって彼の存在を消し去る立場ではないです。

顔と名前は知らなくても、消えた日を仮の命日・縁日として、彼への感謝を念じることはできるはずです。

ハンドルネームはご存知なら、そのお名前を大切に忘れないこともできるはずです。

旅立ったかどうか事実がわからないことを受け容れようとするのは大変かとは思います。
それより、今できる『念じる』を大切にしてください。

やさしい言葉でなくごめんなさい。
でも、悲しみからの回復を考えて、あえて上のように回答させていただきました。

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おきもち

hasunohaに出会えた私は幸せ者です。カニとおろし蕎麦と水ようかんが美味しい地方の町のお寺にいます。人混みは苦手、都会のイルミネーションやサイネージはまぶしすぎる。だけど、ここhasunohaでの対話があるから孤独じゃない。ありがとう。
社会福祉士、公認心理師として社会では働いてます。事業や組織を背負うと言えないこともあるけど、仏教を背負うと語る内容も変わります。悩みがなくても話してみたいときは相談ください

質問者からのお礼

回答ありがとうございました。
彼のことを忘れず、新しくまた歩んでいきたいと思います。

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