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とらわれから逃れるには

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有り難し有り難し 16

過去の出来事にとらわれてしまい、毎晩辛くて眠れません。

昼間は仕事でなんとかごまかしていますが、夜になると色々思い出し涙が止まらず、お酒を飲んだ勢いでこのまま死んでしまおうと思う日も多くなりました。
実際に突発的な行動に出てしまい、本当に自殺してしまわないかと恐くなります。

数年前から座禅をしていますが、最近では座禅中も考え事をする時間になってしまい余計に辛くなります。

心ここに在らずで、いつ自ら命を絶ってしまうか分からない状態から抜け出すにはどうしたらよいでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

脳内消化不良にはこれが有効⤴✨

手っ取り早いのはその心のモヤモヤをちゃんとお話することでしょう。
暇なときにお電話いただければ私なんぞでよければお話をお聞きします。サックリ程度で。人間の心っちゅうモンはやっかなところがあるモンでして、気になっていることが何度も出てくるのですわな。それはあなたにとってのモヤモヤ。この心のモヤモヤを本来の仏教では衆生といいます。外のどこかの他人様ではなく、自身の内なる意識。自分がそれを何とかしたい迷いの思い。内なる子羊ちゃん。🐑メぇ(迷)~。
だから、そのさまよえる子羊ちゃんをすくってやらなきゃいかんのです。問題意識が生じるのは内なる自身の心というステージ上ですから、主演もサブもヒロインも全部あなたですから救いごたえ、手応えがありましょう。
ちゃんと向き合うということです。
そうすると、きちんとした言葉になります。ドラマがあるはずです。ストーリー化されるはずです。「私はあの時、あの場で、あの人によって、あんなことされたんだ。それがどうしても納得がいかん。おかしい。うん。何度考えても、何度も我慢してきたけれども、でもどうしても私の本心がゆるせない。納得がいかない。どうしたらいいんだろう?」という叫びになるものです。
お釈迦さまも生老病死という人間が絶対に避けられない現実から救われたいと願い、その心の叫びが菩提心という悟りを求める原動力になり、その願いは達成され多くの人を救い、私も救い、いずれあなたも救うでしょう。
心底、この悩みを解決したいという大菩提心・大発心を奮発するのです。
たった一つの悩みが何と、その人の今後の人生を大きく変えるというエネルギーになるのです。内科、歯医者さんにいって治療スッキリ、ホナさいならでも別にいいのですが、仏教とは人間性すらも高める教えでもあります。アタシの悩みが解決すればそれでオッケーあとは勝手気ままに生きてやるわい、というケチな気持ちでは自分が救われただけで、その後も誰かにゴメーワクをおかけする可能性は無きにしもアラジンです。
よって、あなた様も含め、今後この文言を目にされる御方がこれを機縁とし、自分の晴れない悩みが生じたら、内科に行ってホナサイナラという程度で終わってしまうのではなく、さらなる心の豊かさを追求して世の中を善導する善玉菌となるぞぅ🐘ぐらいの仏サマ的向上心も持ってみましょう。自ずから自己の心が善導されましょう。✨

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼が遅くなり申し訳ございません。
ご回答いただきありがとうございます。

自分の感情を言葉にして話す事が苦手ですが、仏教を学び生きる原動力としていきたいと思います。

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