幸せをどうしても探してしまいます。
私は小学生の時、いじめっ子でした。
私がいじめを始めた理由は、家で自分の居場所がなく、学校で確実に自分の居場所を作る為に誰かを標的にすることで仲間を得ようとしたことが原因です。
その後、いじめた相手には謝り、許してもらい、その後は普通に接して同じクラブで活動するまでになりました。
私はその後、因果応報とでもいいましょうか。ありもしない噂を広められ、学年全員からのいじめを受けました。
自分がいじめられた経験もあり、もう人のことはいじめないと強く心に決めました。
しかし10年以上経った今、自分がいじめをしてしまったことに対しての罪悪感が消えません。あの時、許してくれたのは仕方なくなのではないのか、本当は殺したいほど憎んでいるのではないか、そう思うと自分なんかが普通に生きていることに抵抗を感じます。
私がいじめっ子だったと知らない同級生に「優しいね」って言われると違和感を感じ、素直にその言葉を受け取ることができません。
人を傷つけた人間が幸せになってはいけない。自分なんかが幸せにならないように生きてきました。
しかし最近無意識に、どこか幸せを探してしまう自分がいます。誰かと幸せになりたいと思う自分がいます。
こんな最低な自分と向き合っていくのが辛いです。幸せになりたいと思う自分を消したいです。
私がいじめてしまった相手の方が辛かったのは重々承知で、私なんかが辛いなんて誰かに頼るのはずるいというのもわかっています。
でも、もう限界です。
死んで、もっといい人間に生まれ変わりたいです。
消えることは逃げでしょうか。
それとも過去の過ちへの贖罪になるのでしょうか。
お坊さんからの回答 1件
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今日までの事には意味があったのです。
さやかさんのお悩みお察し申し上げます。
過去のことは充分に理解し、そしてその時のことも相手に謝罪しています。その後も多くのことを経験しながら、今日まで来られたので、これ以上の出来ることはないとはないと思います。
そして、幸せになりたい。ということ、これも願うべきであり当然のことです。プロフィールを拝見すれば、さらにそのことは思います。
一つ言えることは、今日までの良き経験もそうでない経験も全部必要な事だったとお考え下さい。片方だけでも無理で両方を経験することで成立することも多々あるのです。ゆえに>死んで、もっといい人間に生まれ変わりたいです。
ならば同じことを再度、経験して頂くことになるだけです。
嫌ですよね。であれば、さらに前に進みましょう。そして自分が幸せになるということは周りの人もそうでなければなりません。
どうしたら、そうなるのかが、これからのさやかさんの課題ではないでしょうか。
それが、>それとも過去の過ちへの贖罪になるのでしょうか。
そうなるのではないでしょうか。
今までの経験はすべて無駄ではなかったということです。
そして自分も周りの人にも幸せを届けてください。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
前を向いて生きていきたいと思います。